あはは、と楽しげに笑う声がやけに心地よく聞こえるのは、きっと彼女の声だから。いつもの如く何の予定もない平日。高校の同級生だったなまえの仕事が終える時間を見計らって一人暮らしのなまえの家を訪れた。なまえは俺を見ると何の警戒もなしに俺を家に上げて、更にはさっき作ったんだという夕飯まで俺にご馳走してくれた。そして今、ベッドに腰をかけて楽しそうにテレビを見るなまえを俺はじっと見つめていた。


 俺はなまえが好きだった。高校の時からずっと。でも言い出せずにずるずると友人なんだか知人なんだかわからない関係を続けていて、こうしてたまに家に行く。高校を卒業して何の職にも就かずぶらぶらしているクズの俺とは違ってなまえは大学に進学し、そこそこいい会社に就職した。その間に何人か彼氏も出来た。そんななまえは俺の憧れで、俺とは住む世界が違う真っ当な人間だった。

 そんななまえが俺みたいな底辺の人間を快く家に上げてくれる理由は分からないし、彼氏が出来てもなんだかんだ俺と連絡を取ってくれる理由も分からない。でも俺からすればそれは有難い話で、できることならばこうしていつまでもずるずるとこの関係を続けていたい。でもそれは無理な話だって分かってるから期待はしていない。


「あはは、あー、お腹いたい。笑いすぎた。って、一松テレビ見てなかったの?」

「…うん。まったく」

「ええ、今の番組最高に面白かったのに。あ、次始まるやつも面白いよ、きっと一松もお腹抱えて笑っちゃうから、一緒に見よ!」


 けたけたと笑うなまえを見てるほうがよっぽど面白いし楽しいよ。そう思ったけれど、それを口に出すのは憚られて、俺は黙ってテレビに目を向けた。そうやって楽しいことを素直に楽しいといえるなまえが好きだ。好きだ、本当に好きなんだ。だけど臆病な俺はそんなことを口に出せはしない。
 それどころか、俺はなまえと付き合いたいとすら思っていないのだ。俺となまえとでは月とすっぽんほどの差があって、それをどうやったって埋められる自信がない。きっと、そんな俺を知ったらなまえは俺を嫌いになる。それに付き合ってしまったら、いつ別れようと言われてしまうのか不安で仕方なくなることも目に見えていた。ふたりになれば、次またひとりになった時どうしたらいいのかわからない。俺は悲しみに暮れて死んでしまうかもしれない。そうしたら優しいなまえは自分を責めてしまうだろう。そんなのは絶対に嫌だった。


 だけど、いつかなまえにもまた彼氏ができて、今度は結婚の話が出るかもしれない。なまえが好きになる男は絶対にいい男だから、きっとなまえを幸せにしてくれる。そうしたら俺がなまえに会うことは出来なくなって、そうしたら俺は、一体どうしたらいいんだろうか。
 告白する勇気なければも付き合うことだって出来ない俺がこんなことを思うのは間違ってる。間違っているんだ。だけど。


「…なまえ、どこにも行かないで。ここにいてよ」

 ぼそりと呟いた言葉は、本当に小さな声だった。テレビから聞こえる騒がしい笑い声にかき消されてもおかしくないほどの、声。それなのに。
 なまえはふと俺を見て、笑った。そして、


「どこにもいかないよ。いくわけないじゃん、一松を置いて。だから、ね、今まで通り私の近くにいて」


 そういって、俺を抱きしめたんだ。きっとなまえは分かってる。俺がコンプレックスの塊で告白する勇気なんてないんだってこと。それから、付き合いたいと思ってもないこと。でもなまえが好きで好きでたまらないこと。全部分かって俺をそばにおいてくれてる。ねえ、なまえは俺を甘やかしすぎだよ。もうやっていつも俺を甘やかしてちょうどいい距離感を保って俺に温かい居場所を用意してくれて。こんなクズを甘やかしていいことなんてひとつもないのに。
 だけど、こうしてなまえがここにいてくれる限り俺は甘え続けてしまうんだ。なんたってクズだからね。
 抱きしめられた腕から伝わる温もりに俺はそっと目を閉じて、でも抱きしめ返すなんてことやっぱり到底できそうもないから、服の端を軽く握ってその温もりに体をゆだねた。


どこにも行かないでここにいて
(できることならずっと甘やかしてくれ)

#11/29/15