普段なら騒がしくて少々手狭だと感じるこの居間も、私と彼だけになれば驚くほど静かで広すぎる空間に早変わりする。テレビから流れ出す雑音だけがいやに騒がしくて、時折耳を塞ぎたくなる。ひとりじゃないのに、ひとりの時よりも寂しさが増長されるこの空間に、私は膝を抱えることしか出来なかった。

 彼―、松野一松はそんな私の存在などまるではじめからなかったかのように猫を抱いてテレビに視線を向けている。話しかけようと何度も思ったけれど、ここまで露骨に無視されるとそんな気も失せていく。


「……あのさ」


 けれど、先程までいなかったものとして私を扱ってきた本人は、そんな私の心情をも無視して私に話しかけてくる。


「…はい」

「どっかいかないの」

「……ここに、いたいんですけど」

「…へえ。じゃあ俺が出て行く」


 そして、彼の放つ言葉のひとつひとつが私を傷つけた。私は、松野家の四男、松野一松にこれでもかというほど嫌われている。




「それで?一松は出て行ったきりなわけだ」

「…うん」


 新台入替だ!と勇んで出て行った松野家の長男おそ松が帰ってきたのは、一松が出て行ってから3時間後のことだった。部屋の片隅で膝を抱える私を見て、一瞬吃驚した顔を作ったおそ松は、それでも私の言葉に耳を傾けてくれた。


「うーん。あいつなんでそんななまえのこと嫌ってんのかなあ」

「そ、れは…私が聞きたい」


 とある事情からこの松野家に居候して早4年。居候の身だから時たま日雇いの派遣に行って出た給料をまるっと松野家に渡し、必要時以外は外出しない私はほぼこの家にいて、一松以外の兄弟とはそれなりに仲良くやってきていた。だけど、一松だけは、彼だけは私を露骨に避け、嫌がるそぶりを良く見せていた。


「なまえは一松のこと好きなんだろ?」

「……うん。だけど、一松は私のことが嫌いだから」

「自分の気持ちを伝えたことは?」

「…あるよ、一回だけ」


 あのときのことはよく覚えている。居候をし始めて半年ほど経ったころ、初めて一松とふたりだけになったことがあった。その前から彼は私を避けていたので、これはいい機会だと思い彼に話しかけたのだ。


『…あ、のさ。何で私のこと避けるの』

『………』

『わ、私、一松と仲良くしたいんだけど』

『…なんで』

『す、好きだから』


 私がそういった途端、一松の顔がひどく歪んだ。そして、嫌悪を隠さないその顔で、私をまっすぐ見据えてこう言い放ったのだ。

『俺、あんたのこと嫌い。好きとか気持ち悪いんだけど。早くこの家から出てって』


 よく嫌よ嫌よも好きのうちとか可愛さあまって憎さ100倍だなんていうけれど、彼の場合は違う。本気で私のことが嫌いなんだ。だけど、嫌われる道理がない。私は彼に何もしていないし、したくてもこの状況じゃまず無理な話で。だから分からないんだ、彼があれほどまでに私を嫌う理由が。


「…なるほどなあ。あいつは何考えてるか分からないやつだからな。俺にもさっぱり理解できん」

「……で、すよね」


 がくり、と分かりやすく肩を落とす私におそ松が苦笑いをもらす。そのとき、玄関が開く音が聞こえて、はっと顔を上げた。


「…ただいま」

「おお、一松か。おかえり」

「……お、おかえりなさ「パチンコ負けたの」


 帰ってきたのは一松だった。随分早いお帰りだと思ったけれど、多分私と二人きりになるのを避けるための外出だったからそんなに長く出るつもりじゃなかったんだろう。私のおかえりを遮って、声すら聞きたくないと露骨に態度を出してくるあたりそれが嫌というほど分かる。
 ぐ、と唇を噛んだ。じわじわとせり上がってくる涙を隠すためにうつむくと、おそ松が私の頭をぽん、と撫でた。私は耐え切れなくなって、立ち上がると居間を出る。そのタイミングで、我慢していた涙がぽろりと床に吸い込まれるように落ちていった。


 とりあえず洗面台に向かい、顔を洗う。一松が私のことを嫌いなのは分かっていた。だけど、仲良くしたいのに。初めて一松に会ったとき、この人は私だと思った。世界に絶望していて、自分をどこまでも蔑んでいる様な目。彼とだったら話が合うんじゃないかと思った。それなのに。

 顔を洗い、もう涙が出ないことを確認してとぼとぼと居間に戻るために廊下を歩く。と、居間から話し声が聞こえてきて私は足を止めた。


「…一松。お前なんでそこまでしてなまえを嫌うんだよ」

「…は?」

「別になんかされたってわけじゃないだろ」

「だとしても、おそ松兄さんには関係ないことだと思うけど」

「…ま、それもそうなんだけど」


 苛立った声を発する一松と、あきれた声を出すおそ松。私の話をしてるんだ。立ち聞きは趣味が悪いと思いながらも、私には居間の障子を開ける勇気なんてなければ、このまま立ち去ることも出来なかった。


「……鬱陶しい」

「は?」

「…鬱陶しいんだ、あいつ。俺を見てるみたいでイライラするの。あの絶望したような目とか、だるそうな話し方とか猫背とか…吐き気がする」

「……お、まえ…」

「あいつと仲良くさせようとしても無駄だよ、俺にはそんな気さらさらないからね」


 …ああ、なんだ。そういうことか。私はようやく理解した。私が彼に何かしでかしたわけでもなんでもない。ただ、彼は私という存在が鬱陶しいんだ。私が彼は私に似てると思ったように、彼も私が彼に似てると思っていて、だからこそ嫌いなんだ。なんだ、そうか、そういうことか。


「はは…じゃあなにしても無駄じゃん」


 乾いた笑い声が廊下に響く。居間からまだ話し声が聞こえてきたけど、そんなのはもう耳に入らなかった。ただ呆然と立ち尽くしていた、その時。すっと居間の障子が開いて、一松が出てきた。

 ばち、と目が合う。すると一松は顔を歪め、そして右の口角をゆるりとあげた。


「ああ、なに。聞いてたの。立ち聞きなんて趣味悪いね」

「………」

「聞いてたなら分かるでしょ。そういうことだから、早く出て行って。目障り」


 普段なら私と目があっても、誰もいなかったことにしてどこかへいってしまうのに。今日はやけに饒舌だな、なんて冷静に考えていた。


「…聞いてんの。…ッチ」


 何を言ってるの。私が何を話しかけても、無視するのはいつも一松じゃないか。そう思っても、声も出なかった。だけど、自然と足は動いて私は一松の横を通り過ぎ玄関に向かい、靴を履く。ガラ、と玄関を開けると後ろからひどく楽しそうな声が聞こえてきた。


「もう帰ってこないでね、ゴミ」


 私は何も言わずに家を出た。ぼろぼろと涙がこぼれて、胸が千切れそうなほど痛かった。



嫌い嫌いも好きのうちじゃなかった
(彼は私を本気で嫌っていた、それだけだった)

#11/17/15