彼の美しい頭髪、触れば柔いのにどこか鋭利さすら兼ね備えている、時折それはわたしを見透かすように紫色に光ったりもする、彼の美しい黒髪。長くまるで絹のような。夕刻をとうに過ぎてそれからやって来る夜が大層似合いのその深み、砂のような音をたて水のように流れる、細くて痛みのないひと房。

彼は男性的だとか女性的だとか、そんなただ一面をはかるような言葉では形容できない。彼は自在だった、強く骨々しい手の甲、ほっそりとした首、整う鼻梁、濃く茂るまつげ、薄い口元、すこし厚めの胸板、肉付きのいい脹脛……………。美しい青年にも、艶やかな遊女にも、口の悪いやくざものにも、町娘にも、なんだってなれた、彼は、変幻自在だった。完璧といえるほどすべてを持ち合わせているからだ。



「こんなにきれいなのに」

わたしの口びるからつい漏れ出たというようにその言葉が響いた。よく注意していなければ聞こえないほどの声量だったけれど、さすがは彼、いつものながらの微笑みを浮かばせながらわたしの方をちらりと見やる。

「惜しくはないよ」

そう言って彼は束ねてある一筋をほどく、その形のよい頭を少し傾けると長髪がさらりと広がった。あまり見慣れない姿だった。


彼は明日の朝にもその長い黒髪を捨ててしまうそうだ。つまり断髪。明日は今日と違うから、区切り、けじめ、新しい日を新調した格好で迎える、それはとてもとても大事なこと。

惜しくはないと彼は微塵の未練も感じさせないで言った。女心から言えばここまで長くした髪を切ってしまうのは非常に勇気のいることだ、けれども彼は惜しくないと言う。細めた目とかすかに上がる口角、やさしい微笑、変わらぬ微笑。

変わらぬ、けれどもそれが――彼にとっては些細なことかも知れないが――その目に明らかな変化によって何かが崩れてしまうことが、ないと言い切れるだろうか?

一瞬頭の中をかすめるばかばかしい考え、いうなれば直感。なぜそんなものが湧いてくるのかはわかっていた―――わたしは怖かったのだ、彼がその特徴的な髪の毛を切り落としてしまうことが。今日までの彼を捨て置くようで、明日からの彼がわたしの見知っていた彼でなくなってしまうようで。ただわたしは怖かったのだ、今まで変わらなかったものが途端に形を変えてしまうということが。それはたとえば眠らぬ喧騒の都会が、たった一度の気絶を超えたのち、夜の足が驚くほど速い昔日の景色にがらりと変わってしまうことに似ていた。そう、わたしの暮らすべき世界を、日常を、生活を、まるごと失ってしまったあの日のような。



手を伸ばして彼の頬に触れる。手の甲を黒髪がくすぐる。少しだけ驚いた風な素振りをしてから彼がまっすぐにわたしを見た、そうして尋ねた。


「一体何に怯えているのかな」

「怯えてなんか、」

「ならどうしてそんな顔をするの」


わたしの手に彼の大きな手が重なった。その体温だけがわたしの皮膚に伝わって、じわりと滲んでいった。手のひらのかすかな震えを感じたのか、彼は目を伏せて、また微笑む。

おいでと息の音だけで彼は言った。そうして引き寄せられるわたしの体。視界は遮られ自分のものではない匂いに包まれる、彼の腕の中、それからきついほどの強さで、わたしを抱きしめた。ただ呼吸が苦しかった。


「私はどこにもゆかないよ」

腕の力とは裏腹に子どもを宥めるような声で、そう囁いた。



目の前は真っ暗だった。それはもう夜中にさしかかる時刻のせいかもしれないし、彼の美しい黒髪がわたしを覆ってしまったからかもしれない。彼の手に掴まれていないもう片方の手を伸ばして彼の後頭部を撫でた。そうして滑るように降下させる。


見透かすように光るのは紫。手触りは細く柔らかなのに刺すように鋭利、わたしの不安や堅い殻を、いとも簡単に切り裂いてしまう、黒髪の彼、そうだ変わらぬいとしい彼だ。




まるで切るような 




「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -