「おいで」 口角を仄かに上げ、首を傾げて桂さんが言った。差し出されている左手が少し揺れる。それは、どうした、来ないのかと無言でわたしに問うた。 気持ち口びるを尖らせて桂さんを見つめる。相変わらず優しい眼をしているけれどまだずっと奥があるようで、だからこそこんなにも引き込まれるのだろうが、それがやはり悔しくもある。わたしはこのひとの全てを知らない。 「眠れないのだろう?」 ・ ・ ・ ここはエアコンのモーター音も、秒針の音も、窓の外を通る自動車の音もしない。身を横たえれば自らの呼吸音のみがこの真暗を満たしてしまう。夜ってこんな風だったっけ、とここにやってきた当初は毎夜のように感じたのだった。 今日は確かに寝付けなかった。最近では無音の闇に慣れたと思っていたのに、無駄に寝返りを打つばかりだった。 わたしはここで今なにをしているんだろう、どうしてここにやってきたんだろう、帰れるのだろうか?むしろわたしは帰りたいんだろうか?そもそもわたしは、もとは、どこにいたんだっけ―――。 そういう不安さでいっぱいになったとき、ふいにあの手を思い出した。あの手。桂さんのわたしの頭を置かれる手。大丈夫だとわたしを慰め安心させる手。ただ、今あの手があったらと思った。 あてがわれた自室を半ば衝動的に出、桂さんの部屋へ向かった。彼が寝ていたら大人しく引き返すつもりだったが、辿り着いてみれば襖の隙間から微かに光が漏れている。ああやっぱり起きているのだな、なぜだか確信に近いものがあったのだ。 「桂、さん」 一瞬間をおいて、どうぞと返事がした。 「起きてたんですね」 あまり音を立てないようにと部屋に入り込みながら言った。 桂さんはどうやら読み物をしていたようだった。わたしがその書物に目をやったときには、もうそれは閉じられていたけれど。 桂さんはわたしの問いに返事をせずに、わたしのことを見つめた。 ふいに手を差し出す。 ・ ・ ・ 「………そう、です」 眠れないのだろうという殆ど断定に近い問いにわたしは答える。同時になんとなく目を逸らすと、桂さんがふっ、と息だけで笑った。 「だから、おいで」 わたしに向けた左手をもう一度揺らす。 「撫でてもらいにきたんです」 「…?」 桂さんが怪訝そうな顔をした。 「桂さんの手は、どうしてか安心するから―――」 そこまで言って急に桂さんが急に笑い出す。少し驚いてまた桂さんを見つめ直した。 「そうか、そうだね。こんな夜半に何かと思えば、まあ今の発言もそういう風にとれないこともないが………確かに君はそういう子ではないのだった」 「…?」 桂さんが早口で独り言みたいに言うのを、今度はわたしが怪訝そうな顔をして首を傾げた。 「何かへんなこと、言いました?」 「いや、いいんだ、いいんだ。君がそのままでいてくれなきゃわたしは参ってしまう―――いやはや、このままでも充分困るのだけれどね」 桂さんはなおもくすくすと笑い続ける。 「ほら、おいでなさい、私が責任もって寝かしつけてあげるから」 その手がわたしに伸びて、それに身を委ねると、桂さんはわたしをそっと抱き寄せた。 衣服越しの体温がさっきまでの不安を綺麗に溶かしてゆくようで、わたしは無意識に眼を閉じる。 完全なる夜半にて |