榊/愛し、君へ



「今日はここまでだ」

「えぇー、もう?」

しかしすでにレッスンを始めてから2時間が経っていた。

「あと少しで校舎が施錠される。その前に出なければ…」

「いや、いや!せっかく見てもらってるのに、これで終わっちゃいや!」

「我侭を言うな、名無し。レッスンは続けられん」

「きちんとした音響設備とピアノがあればいいんでしょ?」

「…あぁ」

「あるじゃない」




「先生のお・う・ち!」






愛し、君へ。






「わぁ、スタインウェイだ!」

「靴は脱いだら揃えなさい」

「せんせっ、弾いていい?」


まったく話を聞いていない名無しに溜め息をつきながら頷く。
お預けをくらっていた子犬は、よしの合図をもらいピアノに飛びついた。


名無しの才能は申し分ない。
世界に行っても通じるだろう。
ただ、ピアノに対する情熱がない。
気まぐれに素晴らしい演奏をしてみたり、楽譜を無視して弾いてたり、とにかくむらが激しいのだ。


「…そう、もっと抑揚をつけて」

「こう?」

「あぁ、いい」


この演奏をコンクールで弾いてくれればいいのに。
なんて勿体ないことをするんだ、この子は。
宝の持ち腐れとは、まさにこのことだ。

こないだの出場したコンクールは、ひどい結果だったそうだ。
自分はテニス部の遠征に付き添っていたので直接聞くことは出来なかったが、予選落ち、しかもすでに決まっていたフランスの音楽大学の推薦まで取り消しになったのだ。


「どうして、コンクールでこの演奏をしなかったんだ」

「だって…」

「理由があるなら、はっきり言いなさい」

「先生は誰のためにピアノを弾くの?音楽の先生だから生徒のために弾くの?」

「…名無し?何を言っているんだ」


聞いているのはこっちなのに。
いきなり何を言い出すんだ。


「私はコンクールで優勝したいから、ピアノを弾いてるわけじゃない」




大きく見開かれた瞳から、




「聴いてもらいたい人がいるから、その人のために弾いてるの」




ポロポロと大粒の雫が溢れ落ちる。




「先生、テニス部について行っちゃったんだもん」




いつの間に




「先生、」




この子は大人になったのだろう。




「好きだよ」




「…あぁ」


結局、私はこの子に弱いんだ。
今日も私の負けだ。
滅多に見せない名無しの涙を見ると、抱きしめてやりたくなる。


「もう誤魔化さないで」


いつも答えてやれなかった、名無しの愛に。
でも、もういいだろうか。
教師という立場を忘れて、一人の男として答えてやってもいいだろうか。


「名無し、」

「先生っ!」


名前を呼んだ瞬間、名無しの手が私の口を塞いだ。


「言わないで!聞きたくない!」


幾分か背の低い名無しを見ると、顔を真っ赤にして大きく首を左右に振っていた。


愛おしい。


そう思うのが恋というやつなのだろうか。




「名無し」


ため息混じりに名前を呼んでやると、スルッと手が外れた。
しかし下を俯いてしまい、可愛い泣き顔を見れなくなってしまった。
それさえも愛おしく感じる私は、もう溺れてしまっているのだろうか。

その小さな身体を自分の腕の中へ閉じ込める。


「今度からは必ずコンクールに行く」

「……ほん、と?」

「あぁ。愛しい恋人を自慢しないわけにはいかないだろう」

「っ、先生!!」

「恋人同士は名前で呼び合うんだろう?」

「……太郎っ」

「名無し」






「愛してる」




END


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