ララバイ・オブ・シンデレラ(オル出)




☆前作『出久ちゃんの深夜メロウ』の続き。女体化注意。作中に出てくる法律についてはガバガバな上に捏造です。blogはSSって決めてたのに普通に長くなりました。スケベは次回だ!!



◇◇



 はい、と渡された小さな紙袋をただ眺めていた。だって今日は何でもない日の平日で、たまたま出久に緊急招集がかからない平和な夜だっただけで、特別なことは何一つなかったのに。大人というものはごく普通のど平日でもプレゼントのやり取りをするものなんだろうか。それも明かりの消えた玄関で、靴もコートも脱がずに。今年やっと二十歳になったばかりの出久には、大人の常識というものがイマイチ分からなかった。笑顔で紙袋を差し出してくる男――八木俊典は、出久が受け取るまでその袋を差し出し続けるのだろう。出久は礼を言いながら受け取って、ペコペコと何度も頭を下げた。
 手のひらには変な汗をかいていた。袋を受け取った方とは反対の手をクリーム色のニットワンピースに擦りつける。そのたびに斜め掛けにしたポシェットが揺れて胸の谷間を強調するので、出久の焦りはますます強くなった。加えて厚手の裏起毛タイツに包まれた両足もなんだか汗をかいているような気がして、出久は少し身を引く。だってこんな事、今までになかったのだ。
 高校三年生の春から始まった二人の関係は、出久が高校を卒業してプロヒーローになってからもバレることはなく、実家からセキュリティの高いマンションに場所を移しただけで、まだ物語の続きを歩んでいる。同じ階の、隣の部屋。出久が廊下の突き当りで、俊典がその隣だ。呼び方だって“緑谷少女”のままだし、髪は少し伸びて結えるくらいになったが、本当に何も変わらない二人の関係――いや、嘘をついた。変わったことが一つある。出久からお願いをしていた関係は、自然と俊典の方から連絡がくるようになり、出久が何も言わなくても抱きしめるなどのスキンシップをとるようになった。……ほんの数秒前までは熱い抱擁を受けていたのだ。まさかプレゼントを渡されるだなんて思っちゃいない。

「もし次があるなら“それ”をつけてきて」

 彼の口から飛び出した言葉はなんとも意味深で、出久は「えっ」と声を漏らしたけれど、その真意は終ぞ教えられることはなかった。自分で考えろという事らしい。今日は抱きしめられて紙袋を渡されて、たったそれだけの時間を過ごした後に、出久は自分の部屋へと帰された。……なんてこった。シンデレラだって、もう少し城に長居する。

 出久はポニーテールにしていた髪の毛を解きながら、畳み損ねた洗濯物が放置してあるベッドに勢いよく身を投げた。分かってはいたが、ヒーロー業というものはとにかく忙しい。事件や事故は年中無休だし、夜中や早朝の呼び出しも多くて、家事諸々が疎かになりがちだ。暇をみつけては片付けをしているが、どうしても後回しになってしまう。

「……いけない、これだけはしまわなきゃ」

 サイドボードの引き出しを開けて、右手に握ったままだったリボンを丁寧にしまい込んだ。オールマイトをモチーフにした黄色と青のリボンは高校一年生の頃にネット限定で販売されたデザインのもので、髪が伸びるまで大事に保管していたが、ここ最近は俊典と会う時に必ず身につけるようにしている。今日はポニーテールにした髪の毛で、その前はポシェットにつけていた。お守り代わりでもあり、いつだって出久に勇気を与えてくれる。――出久は、今日与えられたその勇気をほんの少しだけふり絞って、左手に持っていた紙袋を恐る恐るひっくり返した。
 中から小さくて長細い箱が滑り出て、ポスンとシーツの上に着地する。黒い箱に箔押しで刻まれたハイブランドの名前に、出久はぎょっとした。箱の蓋を開けてさっきと同じようにひっくり返してみれば、似たような形のスティックがこぼれ落ちてくる。取り外しができる上の部分を軽く引っ張ると、キュポッという音がした。出久はそうっと筒の中を覗く。この時点で、否、箱を見た瞬間に察しはついていた。諦めにも似た気持ちで下部をひねれば、弾丸にそっくりなカタチの先端がニョキッと顔を出す。
 これは、誰がどう見ても、紛うことなきリップスティックだ。パッケージに書かれた“プティ・プリンセス”は色の名前だろうか。もしかすると商品名かもしれない。どうしてややこしい表記にするのか、出久には甚だ疑問だった。“ピンク”とか“赤”とかハッキリ書いてくれた方が変な勘繰りをしないで済むのに。

 ――もし次があるなら“それ”をつけてきて。

 出久の頭の中に、その言葉がこだまする。珍しく次の約束は決まっていたのだ。出久の休みは事件件数や事務所に所属するヒーローたちとの兼ね合いで、基本的には定まらない事が多い。よく二転三転するし、休みが潰れることもある。けれど、例えヒーロー業といえど労働基準法には逆らえない。一般的な社会人とは違うので除外されている項目はあれど、年に五日の有給休暇の消費は義務付けられているのだ。今は十二月上旬、出久の有給休暇未取得はフルで五日、年度末更新の三月までには全て使い切る必要がある。
 だから、十二月に休暇を入れた。俊典とは前の日の晩に会う約束をしていて、特に深い意味などなかったが、彼と会った次の日に仕事を休むのもたまには良いかと思ったのだ。休みは二十五日。前の日の晩は、クリスマスイブ。深い意味は無い。ただ、ちょっと、特別な気分になりたかっただけで――。
 出久はベッドの上に膝立ちすると、リップを天高く掲げながら祈るように頭を垂れた。
 そう。次に会う約束をしたのは、クリスマスイブの夜だ。今なら、俊典の意味深な言葉の理由も分かる。ずるいと思った。大人はズルい。

「あー!! もう! どうしろっていうんだよ……。ぼく次第ってこと……?」

 ううん、と唸りながらベッドに寝転んだ。この“贈り物”の意味は分かる。暇をみつけては不定期に行われる――予定日をいくつか決めて、四人以上集まれば決行というシンプルな取り決めだ――A組の女子会で、“そういうこと”に能動的な芦戸と葉隠のコンビが持っていた雑誌でプレゼント特集が組まれていた。あの時は黄色い声で盛り上がる二人の話を遠巻きに聞いていたが、まさか自分が当事者になるとは。
 出久はゆるゆると目を閉じながら、数日後に思いを馳せる。寝る前にシャワーを浴びなくてはならないし、明日も朝早くから出勤だし、部屋だって片付けたいし、やることがたくさんあるのだ。こんな事では、あっという間にクリスマスイブがきてしまう。目を閉じて、開けば、きっとあっという間に――。




「お先に失礼します!!」

 パーカーの上からダウンジャケットを羽織り、どデカいリュックを背負った出久が深々と頭を下げる。事務所の中は閑散としていて、珍しく朝の静けさというものを感じさせた。宿明けでもドタバタとしてスムーズに帰れることが少ない中、クリスマスイブにも関わらず、今のところ特に重大な事件は起きていないらしい。

「よー、おつかれさん!」

 休みが潰されまくっていた出久に気を遣ったのか、はたまた今日がクリスマスイブだからか、先輩たちは「ゆっくり休めよ!」と言って、華奢には程遠い彼女の肩を叩いた。身長が伸びない代わりにこれでもかというほど鍛えた身体は年頃の女性にしては筋肉質で、肩幅もガッチリとしている。そんな出久の肩も、俊典に抱かれた途端に普通の女の子の肩になるのだから、まったくもって不思議なものだ。出久は「ありがとうございます。……一応いつでも電話に出られます」と告げて事務所を出る。電話に出られない、なんていう状況にはならない筈だ。たぶん。

 家路につきながら時計を確認すると、時刻はすでに八時を回っていた。少し仮眠して、朝食兼昼食のあとに部屋の片付け、洗濯、買い物、それから支度を整えても充分に時間はあるだろう。出久はバスルームに入り、パーカーとTシャツを一気に脱ぎ捨てながら、土埃でごわごわになった髪の毛を片手で梳いた。胸の辺りまで伸びた毛先が玉結びのように固まっている。洗面台の下から使い切りのトリートメント――それも少しお高いやつ――と、薬局ではなくデパートで貰ったお試しの化粧水を取り出して、目の前に並べた。一日で何とかしようなんて愚かな話だったが、たとえ気休めだとしても、何もしないよりはマシだろう。

 自分は彼とどうなりたいのかな。と、そんなことを考えながらシャワーのお湯をかぶる。浴室との寒暖差にふるりと身体が震えた。熱々の湯は大粒の玉になって白い柔肌を伝い落ちていく。彼と可愛らしい逢い引きごっこをしていた頃に平均より遅い二次性徴を迎えた身体は、気がつけばすっかり大人の女になっていた。一応出るところは出てるし、引っ込むところは引っ込んでいる。ただ……筋肉質でがっしりとしているが、彼はいつでも“かわいいね”と抱きしめてくれるのだ。自分は可愛いのだろうか。鏡に映るのはソバカスの散った頬と水に濡れてワカメのようになった髪、寝不足で少し荒れた肌の、疲れた顔の女。そんな女でも、彼は。

「すきって、言ってくれるのかなぁ」

 あの頃の出久はヒーローになりたい女の子で、恋に生きる女の子ではなかった。だから“ごっこ遊び”で良かったのだ。それじゃあ、プロヒーローとして駆け出し始めた今の自分は? 誰かを愛する女になっても、それは許されるのだろうか。
 シャワーのコックを捻ってザーザーと流していた水を止める。誰かに勧められた柔軟剤を使ってもふわふわにならなかったタオルで身体を拭くと、少しよれたスウェットを着てドライヤーを手に取った。




 目を開ける。薄暗い天井に、オレンジ色の光が一本ツウッと線を引いていた。重たい頭を持ち上げて、うーんと肩を回す。あれ、何やってたんだっけ。目をしょぼしょぼとさせながら、出久は時計を見た。午後四時三十分。ん? と首を傾げる。午後四時、三十分。何度見てもデジタル時計の表示は変わらない。

「わー?! まずいまずいまずい!!」

 待ち合わせの時間は五時三十分だ。あと一時間しかない。出久は大慌てで飛び起きるとスウェットを脱ぎ捨てて、ハンガーにかけてあったワンピースを手に取る。出久にとってのお洒落といえばワンピースで、上下を合わせる衣服だと組み合わせ次第ではとんでもなくダサいコーデになってしまう為、俊典と会う際にはとにかくワンピースを着用するようにしていた。今日のワンピースも八百万が可愛いと言っていたものを参考にしたのだ。
 小さな丸襟のシャツワンピースで、紺色の生地をベースに橙と臙脂を交互に組み込んだチェック柄。とても可愛らしいのに、コーデュロイ独特の上品さもある。腰の辺りで付属のリボンを結び……結ぼうと思ったが出久の手によって変な方向に傾いたリボンができてしまうので、それは泣く泣く外した。腰の細さを強調するのは諦めたけれど、オーバーサイズの真っ白なカーディガンがごつい体型を隠してくれるだろう。あとはメイクをして、もらったリップを……ぶるぶると震える手で塗れば、本日の支度は完了だ。リップを塗るのに無駄に時間をかけてしまったが、待ち合わせの十分前に彼の家のチャイムを押せたのだから上出来のはずである。
 ピンポン、とチャイムを押してすぐに「やあ」と家主が顔を出した。彼はいつもオシャレだが、今日はいつにも増してカッコイイ。そわそわしながら玄関前に立つ出久を見た俊典は、その視線を彼女の唇へと移した。
 一瞬目を見開いたかと思えば、ハッとして表情を引き締め、続けざまにへにゃりと笑う。

「……うん。今日もかわいいね」

「ぁえ……っと……。……嬉しいです」

「それじゃあ行こっか」

「え? 行くってどこに……」

「レストラン」

「れすとらん」

「外で食事」

「そとでしょくじ……ソトでショクジ?!」

 急にオウムになってしまった出久の手を引いて、俊典は彼女をマンションの外へと連れ出した。もちろん出久は少し抵抗した。だってこんな格好で外に出たことなど一度もないのだから。女の子らしい格好は俊典に会うために、それだけの為にやっていた事で、外出することを想定していたものでは無い。

「ダメですよ、ぼく、こんな格好なのに」

「こんなって……。今日の君は……いや、いつも可愛けど、今日は特にとっても素敵なんだから大丈夫」

 あれよあれよと車に乗せられ、連れていかれたのはホテルの最上階にある高級そうなレストランだった。すでに予約されていて、次々と出される料理を緊張で味も分からないままに飲み込んでいく。始終楽しそうにしていた師とは何か言葉を交わしていたと思うが、それすらも記憶からポンと飛んでいた。まるで夢でも見ているかのようだった出久の意識がハッキリと戻ったのは、会計を終えて――食事代はすべて俊典が払ってくれた――化粧直しに立ち寄ったトイレの鏡の前で。リップを片手にボケッと突っ立った自分と目が合う。口の中がやけにスースーしていて、マウスウォッシュを吐き出さずに間違えて飲んでしまったのでは? と思ったほどだ。……意識が飛んでいたので真相は分からないが。

「ひえっ……」

 今度は素早く丁寧にリップを塗り直して、急いでロビーへと戻った。入口の前で待っていた俊典に再び手を引かれて助手席に乗り込むと、彼の車はどこにも寄らずにマンションへと直帰した。車を降りてすぐ、出久の手はやっぱり彼に握られる。二人は俊典の部屋の玄関をくぐり、靴を脱ぎ、フロアに上がったところで足を止めた。

「……いいかな?」

 出久は「はい」と素直に頷く。
 掴まれた手首を引かれ、腰に手を回されて、抱き締められるのだと思った。けれど。予想は大幅に外れ、上から覆い被さるように唇を重ねられて、出久は「んぅ?!」と驚きの声を漏らした。首筋からドバッと汗が出る。出久にとってのファーストキスは、身体はどんどん火照ってくるのに背中がゾクゾクとして、なんだか風邪をひいたような感覚だった。心臓のドキドキは限界を突破して、そのうち体内で爆発するのではないかという不安に駆られる。そんな彼女の不安を察知したのか、腰を支えていた手がゆるゆると背中を撫で、後頭部に回された。
 ごっこ遊びは、もう終わったのだ。
 大きな手のひらが緑色の癖毛をくしゃりと優しく掻き混ぜる。指の先が頭皮を掠めるたびに、ゆるく電気をかけられているようなピリピリとした感覚が断続的に襲ってきて、出久の肩には自然と力がこもった。
 相手の顔がゆっくりと離れる。ふはっ、と大きく息を吐いた途端、出久は今の今まで呼吸を忘れていたことに気が付いた。心配そうにこちらを見る視線とかち合う。薄い暗闇の中で揺れ動く青い瞳がガラス玉のように綺麗で、しばらくの間ぼうっと見蕩れてしまった。一秒、二秒、三秒――。瞬きの瞬間に魔法が切れて、思わず顔を下げた出久の目に色付いた唇が飛び込んでくる。べっとりと、薄い唇のラインを無視して塗りたくられた薄い紅。それはいつか、咳と共に吐き出された喀血のようで――。……いや、まて。彼の口にリップがついているという事は、今の自分の唇はたいそうみっともない状態になっているのではないか。
 出久は急に不安になって、俊典の服に縋り付くだけになっていた両手をパッと浮かせた。隠してしまえば大丈夫。そう思ったのも束の間、出久の両手首は再び握り込まれ、行き場を失う事になる。

「ご……ごめんなさ、」

 ぺろりと唇を舐められて、「ひゃんっ」と可愛らしい悲鳴が漏れた。先程までの押し付けるだけの口付けとは違い、今度は角度を変えて何度も何度も、小鳥が餌をついばむような可愛らしい触れ合いだった。

「んッ、あっ……ふ、ふぁっ、あ」

「――くち、あけられる?」

「んぇ……? アッ、んぅっ……だめ、あっ、や……ぞわぞわ、しちゃう……からっ、だめです、んッ、ふぁ……」

「ッ、嬉しくて……君はもう私に……ん、会ってくれないんじゃ……ないかって、思ってたから……さ」

 舌先で唇をつつかれて、出久の胸の奥はきゅんとせつない音をたてる。遠慮がちに侵入してきた舌は彼女の口の中を少し荒らしただけで、すぐに抜けてしまった。

「……緑谷少女」

 ひと息ついて、出久は俊典を見上げる。

「……少女は、ヤです」

 そう告げられた当の本人は「え?!」と驚いた声を上げたが、出久はゆっくりと一言一言を絞り出すように、同じ言葉を繰り返した。俊典が困惑したように首を傾げ「みどりや……さん?」と呟けば、それを聞いた出久は耐え切れないとでもいうようにフフッと声を漏らした。

「なっ、なんで……んふふッ、なんで急に……他人行儀……? ……なまえ。名前がいいです」

 俊典は数秒間たっぷりと悩んでから、再度口を開く。

「出久…………ちゃん」

 最後の方はモゴモゴとしていて上手く聞き取れないほどの小さな声量だった。それもそのはず、男は視線を明後日の方向にそらしながら、口元を手で覆っている。

「ちゃん……。は、ちょっと……出久でオネガイシマス」

「…………いずく」

「はい」

「出久」

「なんでしょう?」

 俊典は「ンンンッ!」と腹の奥で唸ったあと、大きな瞳で自分を見上げてくる出久の身体をひょいと抱き上げた。

「わ?! え、え?!」

 出久を横抱きにして廊下を突き進む男の足取りに迷いはない。玄関をくぐって右側最奥にある扉は、出久が一度も入ったことの無い場所だ。リビングに向かうために、扉の前を通り過ぎるだけの場所。いつも俊典のあとを付いて歩く出久が数十秒かけて辿り着く場所だって、長い足を持つ彼にとっては徒歩数秒圏内だ。
 少し半開きになっていた扉を器用に足の先で押し開けて、俊典はその向こうへと進む。部屋の中は壁際にある間接照明でぼんやりと照らされていた。温かみのある光だ。間接照明は細くうねったような木の形をしていて、何本かに分かれた枝の先端に真ん丸の照明器具が取り付けられている。
 ――幼いころ母に読んでもらった絵本の中に、似たような木があった。出久が不思議な懐かしさに魅せられ、その灯りに目を奪われていると、身体に軽い衝撃が走った。気づけば身体がベッドの上におろされている。ふちに腰をかけて、足はぷらんと投げ出したままだ。

「オールマイト……? ここ、寝室……」

「え?! ちっ、違うからね?! 別に変なことしようとか思ってないから誤解しないで!!」

「へぁ?! は、はい、大丈夫です……?」

 おろおろする出久の頭をくしゃりと撫で、それから彼はウォークインクローゼットの中に入ると、小さなダンボール箱を持って帰ってきた。閉じられていない蓋を指に引っ掛けて持ち上げると、中身が見える。中に詰まっていたのは乾燥剤と、それから一組の靴だった。出久の頭の中に“あの日の記憶”が色鮮やかに蘇る。レモン柄のワンピースに合うように背伸びして買った赤いパンプス。あの日、俊典の部屋に忘れてきたもので、彼女は後日スリッパを返しパンプスを回収しようと思っていたけれど……。玄関先に並べられていると思っていたパンプスはその姿かたちをキレイさっぱり消していて、次も、その次も、それから先の逢瀬でも、パンプスの行方を聞くことはできず、返してもらうことはなかった。
 あれはワンピースに合わせて買っただけで慣れない靴は歩きにくかったし、今後履くことは無いだろうと感じていたから、別に返ってこなくても問題はなかった。だからすっかり忘れていたのに、どうして、今になって。出久が「ぼくのくつ」と呟くと、俊典はごめんねと頭を下げる。

「……口実にしようかと思って、なかなか返せなくてさ。本当に申し訳ない」

「口実……?」

「もし、万が一……君から連絡が来なくなったら、靴取りにおいでって……誘うつもりで」

「え?! ん? あれ、じゃあ、どうして……」

 んんッ! と、かしこまった咳払いが聞こえた。緊張した面持ちでこちらを見つめる男に、出久も思わず背筋を伸ばす。何を言われるのかとドキドキしながら続きを待った。

「私と一緒に暮らさない?」

 俊典はベッドの前に片膝をつき、恭しく彼女の足を持ち上げて、馬鹿みたいな丁寧さで小さな足にその赤い靴を履かせた。当たり前だがサイズはピッタリだ。頭の中にリンゴンと鐘が鳴る。黙ってその鐘の音を聞いていた出久は、両足が赤いパンプスに包まれた瞬間ぱちりと瞬きをして、それから「は?」と小さく声を漏らした。

「は? え?! 一緒に?! それってオールマイトと同居ってこと?! ルームシェア?!」

「……同棲って言って?」

 俊典が出久の体を巻き込みながらベッドにゴロンと横になる。ひんやりとしたシーツの上に転がったはずなのに出久の身体はどんどん暑くなり、ついには耳の先がじんと痺れた。優しい手つきで下唇をなぞられ、ひっ、と変な呼吸になる。

「リップ、とれちゃったな。……もったいない。とてもよく似合ってたからさ。あっ、そうだ、また今度ちがう色を買ってあげる」

「そんな……ぼくなんかに、そんな、お金使わないで……」

「嬉しいんだ。私が選んだ色に染まっていくのが、とっても。……キスしてもいいかな?」

「急に?! えっと、ちょっと待ってください……あの、」

「ダメ?」

「ダメじゃないです! けど、その……オールマイト……りっ……リップが、ついてます、」

 そう言って親指の腹で拭ってやるのが、出久にとっての精一杯だった。





title by April
(タイトル名詞一部改変)




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