走る、走る、走る
都会の雑踏を掻き分け、静雄は必死で走っていた。
捕まったら終わりだ。荒い息をあげて、静雄は得体の知れない恐怖と戦っていた。
大通りを抜け、人影のない民家が建ち並ぶ裏道へ逃げ込む。電球の切れかかっている街灯がバチバチと音を立てていた。その周りには何匹かの昆虫が舞っていた。
走ってきた道を振り返る。そこには暗い闇しかいなかった。
人影がないことに静雄は安心して息をつく。しかし上がった息を落ち着かせる静雄の背中にどろりとした声が這った。
「シーズちゃん」
瞬間、ぞわりと静雄の背中に走ったときにでた汗とは全く違う部類の汗が伝った。
振り向くのが怖い。振り向けば最後だ。静雄の落ち着きを取り戻していた筈の心臓は異常なスピードで脈打つ。
街灯が一際大きくバチリと音を立てた。
静雄は恐怖に震える身体を叱咤して、ゆっくりと振り返る。
「観念した?」
男は黒と同化し、静雄を見つめていた。赤い目だけが別の生き物のように笑みを浮かべた。
静雄は振り返った体勢のまま恐怖にうち震えた。黒は一歩足を進めた。
「い、ざ」
カツン
静雄の掠れた声は、暗い道にやけに響く男の靴音に掻き消された。男の全体が静雄に近付いたことにより街灯に照らされた。
男は美しかった。
その美しさが、静雄は叫びたくなる程に恐ろしいのだ。
「追いかけっこはもう終わり?」
男の笑みに静雄は強い目眩を感じた。
静雄がこの男から逃げきれることなど不可能なのだ。
街灯の周りを浮遊する蛾が、バチリと音を立てて死んだ。
(110301)