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呆れたようにため息をつくと、慧がまた思い出したのかお腹を押さえて小さく笑った。物腰の柔らかい兄貴が爆笑をすることなど滅多にないが、久々につぼだったらしい。
「ちゃんと教えてやっただろうな?」
「ええ。綺麗めな衣装でしたらかまいません、と言ったよ。そうしたら、もう、すっごく安心しきった顔しちゃってさ…っ」
未だに笑いが収まらない様子の慧に、俺はだんだん呆れてきた。しかし、そんなナオの様子をありありと想像できてしまうあたり、俺も末期らしい。
―――確かに、アイツがスーツなんか着たら、七五三だもんな……
幼い顔立ちの年上を思い浮かべ、小さく笑う。出来ればスーツを着たくないという気持ちが表に出たのだろう。
「…ふふっ、とにかく取材もコンサートも快諾してもらったから」
「あぁ、さんきゅ」
「――――うん。それじゃまたね」
慧はそういうと、すぐに自分の仕事に戻ってしまう。
少し返事に間があったな、と疑問に思ったが、その理由はすぐに見当がついた。
―――久々に、兄貴に礼を言ったな…
今までは、自分のことに必死で。
そんな当たり前のことすらできていなかったのか、と、痛みを訴える指を見降ろす。
今日のレッスンは、これ以上出来そうにない。痛みでぶるぶると震える指先を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
―――絶望、だったのだろうか。あれが。
俺にとってピアノを弾くことは、息をするように当たり前のことで。それなのに、痛みを訴える指は、思うように動いてくれなくなった。
痛いだけならまだよかった。だけど、痛みが、俺に一つの気持ちを芽生えさせた。
『―――痛いから、ピアノを弾きたくない』
ピアノを嫌悪する感情が浮かんで、俺は戸惑った。まるで自分の半身のように、一生のほとんどの時間を共に過ごして来たのに。
そんなときに、親からの言葉は身に堪えた。
そんなことを言わないでくれ、と思いながら、自分の中にあったわずかなピアノに対する負の感情を言い当てられた気がして、躍起になっていた。
『昴君自身が、一番わかっているんでしょう?』
―――そうだよ、俺は自分で、心を閉ざしたんだ。
気づきたくなかった、ピアノを否定する気持ち。ただピアノを好きなだけでは居られなくなった、変わってしまった俺の心。
閉ざした心を誰にも見せたくなくて、変わることを恐れた。
いつまでも―――ピアニストの『朝倉昴』を望んでいたのは、俺自身だ。
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