「バイバイ、先生ー!」
「はーい、さよならー」
時刻は午後九時半。 最後の生徒の母親が迎えに来て、ありがとうございました、となまえが頭を下げてから、女の子が手を振った。 くるり、と向きを変えて職員スペースの自席に座る。 あー、それにしても、今日はやることが多いぞ、ともう一度気合を入れ直した。
「みょうじ先生」
「はーい、なんでしょう?」
まだ大学生の若い先生の声にも笑顔で応える。
「明日の佐々木さんの授業なんですけど…」
この会社にアルバイトとして社員として二年勤めた彼女は、若いながらにこの教室のNo.2である。 ハードな塾講師の仕事、やめていく人の数はそれこそ星のそれと同じくらい多いだろうが、その中でも彼女は極々貴重な経験豊富な先生だ。
「うん、板書はそれでいけると思う。でも、単位の変換の説明はした方がいいよ。小学生だとまだ1kmを1000mに直せない子が時々いるからね」
子供の相手をしているからか、彼女のアドバイスは的確で分かりやすいと評判だ。 ありがとうございます、と頭を下げて自席に戻る後輩を懐かしい面持ちで見送って、カレンダーをふと見た。 今日は6月18日。
ん?
「あーっ!!」
思わず声を上げてしまったのはしょうがないと言えるだろう。 この一週間、彼女は仕事に忙殺されてい た。 保護者会の資料作りから、新しくバイトで雇われた教師の研修、子供達の勉強のスケジュールを立て、出勤簿を本社に送る、などなど…今日もそのうちの一日で、明日やっと全ての仕事が片付く筈だった。 だから、すっかり忘れていたのだ。
「みょうじさん」
振り返るとニコニコ顏のこの教室のトップにあたる、まあ一言で言えば上司がニッコリと笑って右手を差し出してきた。
「鍵、俺が変わってあげるっすよ」
カチューシャをしている姿がカッコ可愛い、と評判の若い男性教師はなまえと同様古株の先生だ。 故にこの日がなんの日か、言われなくても知っている。
「早く帰らねーと、また拗ねるかもしんねーだろ?」
「え、でも、高尾先生…」
ほら、行った行ったと戸惑う彼女の背中を押してやる。
「ま、もしそれでフられたら俺んとこ置いでって。あ、仕事もちょっとはやっといてあげるから」
「ありがとうございます。大丈夫です、 フられませんから。仕事、よろしくお願いします。」
皆さんお疲れ様です、と言って返事を待たず彼女は飛び出した。
「どうしたんですか、みょうじ先生」
不思議そうに尋ねた後輩教師に、高尾は笑って答えた。
「あいつの男、メッチャめんどいんだよねー」
自分はめんどくさい女、嫌いらしいけどと付け加え高尾は自席のパソコンで彼女の仕事を片付け始めた。
「ごめんっ、ただいまっ!!」
ぜーはー言いながらなまえはリビングへと続く扉を開けた。 それと同時にぎゅむっと広い腕に閉じ込められた。
「なまえ、遅すぎっス」
拗ねたような口調で、彼はなまえの遅すぎる帰宅を咎めた。
「ちょー心配したっス」
「うん、ごめんなさい。」
彼女もまた、彼の背中に腕を回す。 その背中の筋肉はこれっぽっちも衰えていなかった。 やっぱり、現役モデル兼バスケ選手は違うなあなんて呑気な事を思っていたが、 悠長にそんなことを言っている場合ではない。
「涼太さん、ちょっと離して」
中学、高校の時は先輩呼びで、それも悪くはなかったけれどこうしてさん付けで呼ぶのは結婚したみたいで心が温まる。
「うー、いやー」
「ちょっとだけ、だから」
お願い、と見上げると、苦笑した彼はしょーがないっスねーと言って手を離してくれた。
そのまま寝室に駆け込んでクローゼットを開ける。 その中からラッピングされた小包を一つ、己のスーツのポケットにしまった。 そして今度はリビングへと駆けていき、 その中から慎重に中身を取り出す。 きっと忙しい彼は自分の誕生日なんて忘れているから、となまえが今朝用意したものだった。 それなのに、ついさっきまでその存在も誕生日だということも忘れてしまうなんて、なんて間抜けなんだろう、となまえは思った。
「涼太さん、来て」
全ての準備が整って、リビングのソファにいた黄瀬を呼べば準備完了。
「お誕生日、おめでとうっ!!」
パァン、と一つだけ近所迷惑覚悟でクラッカーを鳴らした。 へっ、と目を見開く彼の目の前にはモデ ルで有ることを考慮してかレアチーズケーキが二切れと、ラッピングされた小包と、優しい優しい笑顔を浮かべた年下の彼女。
このところ、仕事で忙しかった彼女だから、正直忘れられていると思っていた。 仕事、仕事って言ってしまうのは自分も同様なのに、彼女にそう言われるとみっともなくそれにすらヤキモチを妬いてしまった。 けれど、彼女はちゃんと覚えていてくれたんだ。
そう思ったら、とても、とても、嬉しくて…
「ありがとう、なまえ」
ちっちゃくて、愛らしい彼女を自分の腕の中に閉じ込めた。
ほら、大切なものは、僕から離れてはいないのですから
どんなに忙しくたって、きっと互いから離れられないんだ。 腕の中の彼女の耳元で愛を囁けば、私 も、と消えいるような声で返されて、また彼は抱きしめる腕に力を込めた。