text | ナノ



「どの道を選んだとしても、きっと君に辿り着くよ」

囁かれる26才

予告の23才12

拾い上げた16才12

囁かれる26才23

始まりの14才

Happybirthday,R.K.



囁かれる26才


《結婚会見から二年、早くも破局か!》

そう赤い字が踊るのは、傍から見ても流し目が色気を纏う写真の上だった。 揺られる電車の中で、傾きそうになるケーキの箱を気にしながら、ぼんやりと思い出したのはなまえの声である。彼女はまだ煽り文が載ることなど知らぬ、まっさらな写真を見て喚いていた。

「なにこれ、すごいよく撮れてんじゃ ん。詐欺レベルなんだけど」

詐欺だ詐欺だ、と容赦なく引かれた頬は涙が止まらなくなるほど痛かった。けれども彼女のつり上げた目のほうがあまりにも涙を誘ったから、甘んじて受け入れたのである。彼女はああみえて、やきもきやきの、どこにでもいる女である。 なぞった頬には、三日月型の瘡蓋がまだうっすらと残っている。だからまだ、つい最近の話だ。モデルの顔に傷をつける、いい度胸をした女なのだった。

「破局、ねえ」

誰にも聞こえないほどの声で、呟く。 破局、破局。 自分には全く縁のない言葉だと思い込んでいたが、案外世間はそう甘くもないらしい。

「そう騒がれても仕方ねーけど」

広告の端には、結婚会見で見せた袴姿の自分がいる。その隣にある着物姿は、ひどく美しい。黄瀬がそうしろと言ったから、当たり前だ。 目の肥えたはずの仕事仲間達から、あんな美人をどこで、と騒がれ、大事になったのには思わず、めんどくせえと舌打ちしそうになった。

「やっぱ外に出すんじゃなかった」

速度を落とした車両の中で、あと三駅ほどの余裕があることを確認すると、ポケットから出した携帯で画像を探しだす。雑誌の一ページを撮った写真は、すぐに見つかった。操作し、拡大する。画質が粗いのは仕方ないことだった。 金髪の男の後ろ姿に手を引かれた、冴えない女がこちらを見ている。 表情までは紙面上わからないが、おそらく眉間に皺を寄せているのだろう。寝起きとそう変わらないほどぼさついた髪を結って、野暮ったい眼鏡をかけても隠せない目付きの悪さは、お世辞とも可愛いとは表せないものである。 それでも黄瀬は、口許を隠すように手をやった。気づけばもう、降りる予定の 駅のホームに差し掛かっている。

予告 の23才・1


初主演した恋愛ものの映画を、公開日の間際に色々な場所で宣伝するのはお決まりのことだった。その中でも一番と言って良いほど大きな舞台は会見である。

「黄瀬さんは、こんな素敵な恋人欲しいですか? それとももう、いらっしゃるとか」

いくつかに定番な質問ののち、聞かれると思っていたことだった。目を泳がせ て、後ろの映画の広告に逃げたくなる。 パネルの正面で、黄瀬と向かい合う女優は、流し目を使っていて、ちょうど目があったように錯覚してしまう。海外で活躍していたという日本人女優で、邦画には初出演だった。

「黄瀬さん?」

ああ、と軽く返事をする。困ったような雰囲気になったのは、作り物でもなんでもなく、それだけ緊張していたからだ。「えっと」と照れたように首筋を掻いて、マスコミの目がぎらついたものに変わる瞬間を感じた。 こいつら怖い、とマネージャーに視線をやると、いいから言え、と手で振り払うような動作をされる。溜め息ついでに息を吸い込んで、躊躇いがちに目を伏せた。

「黄瀬さん」
「ああ、えっと、すんません」と、条件反射で謝ってしまうのは、運動部の名残だろうか。

「恋人はいるんですか?」と、繰り返される。

「いますよ」 はっきりと発音すると、ざわり、と人の波が沸き立つ。矢継ぎ早に向けられるマイクが到達するより先に、「来年の誕生日に、結婚も考えてます」同じ婚約を同じ相手と交わした、映画のラストシー ンを思い出す。

――お相手は、どんな方ですか。 耳が壊れそうだと思った。騒ぐマスコミの向こう側では、ギャラリーが悲鳴ともとれる声をあげている。マネージャーに無理矢理作られた道を割って進む。くすりと笑った。――帰ったら、怒られるかな。

予告 の23才・2


「結婚?」
「そ、結婚」

休日だからといってコンタクトもせず、大して度の合っていない眼鏡で眉間に皺を寄せるなまえは、夕方のニュース番組に目を向けて言った。そこには昼間の場面が、小さなボックスの中に再現されている。

「すごいね、大騒ぎで」
「大変っスよもう、絶対明日とか事務所に文句言われるし」
「でもオッケーもらったからばらしちゃったんでしょ?」
「そうだけど。こんなに大騒ぎになっちゃったら電話対応なんかもきっと大変だって」

オレも有名になったっスね、と笑っても、ふうん、と興味無さげな返事を返す彼女の隣に、ぼすんと音を立てて座った。ソファは軋みもせずにそれを受け入れる。確か一緒に住み始めるのに移った広い部屋でのなかで、いちばん最後まで決まらなかった家具だった。 黄瀬が隣に座ると決まって、なまえは立とうとする。真っ赤に染まった頬を隠したいのか、俯いた表情は見えづらい。体重が細い両足に乗る前に手を引き、再度ソファに落とした。

「ほんとにするの、結婚」

なまえは不安そうに言う。

「したくない?」

「無理しなくていいんだよ」

「無理? どうして? だってなまえとするんスよ。確かにみょうじは、消えちゃうけど」黄瀬は、嫌なんて言わないよね、と眉を下げる。

「……他の誰かとなんてあり得ないよ」

なまえはそう言うが、黄瀬には微笑ましいくらいの虚勢である。

「ほんともう、すぐ不安になるんだから」

と頭を撫でてやればすぐに大人しくなるのだから、単純といえば単純だ。
普通の恋人同士よりも、目に見える繋りがずっと薄いから、彼女が顔を曇らせてしまうのも仕方ないことだろう。女は、感情だけの絆など、すぐに消えると考えるものだ。 他の誰かとのそういう話は、いくつも持ち上がっていた。モデル仲間は勿論、女優やアナウンサーまでにも幅が広がっ てしまったのは、黄瀬の仕事の幅も広がったからなのだろう。 俳優業も始めた今となっては、連続ドラマの共演者との噂が立つことも珍しくなかった。黄瀬が元来打ち上げなどを拒まない性格なのも作用しているのだろう。それらをプライベートと履き違える 女たちは、それで彼の懐に入れたと思ってしまう。

「悪いとは思ってるんスよ」

髪を梳く手はそのままに、顔を覗き込 むようにして言う。

「だから、オレを縛る権利をあげる」

「縛られるの嫌いなくせに」

「なまえにならいくらでも。でもひとつ条件ね」

眼鏡に手をかける。びくりと震わせた肩に我慢がきかなくなって、倒れ込ませるように引き寄せた。

「会見か式か、 なまえの一番綺麗な姿をオレに見せて」

きっと誰もが羨むだろうから。

拾い上げた16才・1


びり、という、授業中にはあまり聞かない紙の裂ける音は、クラス中の注目を浴びた。 振り向かなかったのは黒板に一心不乱に数式を書き殴っている教諭だけだろうか。家庭だとか聞き分けのない生徒達だとかにぶつけられないストレスを、 チョークに乗せて砕いているようにも見える。

「あいつ、どうかしてる」

ぼそりと低く落とされた言葉に目を遣ると、その女の手元には、場違いな色の誌が広がっている。ページを乱雑に破かれた痕が、いくつか列を跨いだここからでも見てとれた。 「絶対弁償させてやる」と友人たちと意気込んでいるあたり、誰かにやられたのだろう。よく見れば、覚えのある絵柄だ。そういえば、今日は黄瀬が表紙を飾る雑誌の発売日だった。折角誕生日に発刊されるのだからと、今まででいちばん大きな企画を組んでもらったものだっ た。 溢れんばかりのプレゼントに機嫌を良くしていたもう一人の自分は、それだけで早々に姿を隠してしまった。どうかしてるのはお前だろ、と真っ白なノートの端に走り書きをする。毎回毎回、授業中 に回し読みしやがって。 舌打ちを耐えるように周りを見渡すと、頬杖をついた黄瀬を見る数人と目が 合った。へらりと笑って、受け流す。 そのなかにひとりだけ、黄瀬を不安げな目で見る女がいた。 いつものことである。好かれれば当然、反感をもつ者だって沸いて出る。特に彼女のような人間には、好かれるばかりなわけがない。 どうにかしたくなかったわけじゃない。ただ、これまでずっと、嫌われてんだろうな、と自嘲気味にすることしかできなかった。きっとこれからもそうなのだろうと、思っていた。

「弁償してくんない」

女の低い声は、草食獣の威嚇と似ている。男のそれに迫力は及ばないものの、 普段との差は決して劣らない。 さっきのか、とうたたねしていた体勢を少しだけ変えて、腕の隙間から光景が見えるようにする。他のクラスメート は、次の授業である調理実習の準備にと早々に家庭科室に向かっていて、教室には黄瀬を入れて三人しかいなかった。黄瀬は面倒事を避けるのに、寝過ごしたと演じるつもりだった。見ると案の定と言うべきか、雑誌を回していた生徒が、 座ったままの少女の目の前を塞ぐようにして立っていた。 迫られているのは、黄瀬を暗い目で見ていた少女である。みょうじなまえという。

「あ、やっぱりあれ真澄ちゃんのだったの?」

ごめんごめん、と軽く誤るなまえ は、恐ろしいくらいに平然としている。 真澄と呼ばれた女生徒は、逆に気圧されたように眉を顰めた。大してなまえは野暮ったいフレームの眼鏡の位置を直し、適当に結ってある黒髪を弄ったりしている。

「ごめん。わたしあの女優さんどうしても嫌いで、つい」

あの女優、と聞いた瞬間に、黄瀬はむず痒いような疼きに歯を食いしばった。 美しい女優の流し目を思い出して、頬が勝手に熱くなる。 インタビューで、自分に影響を与えた作品について尋ねられた際言及した映画のヒロインのことだろう。紙面上の都合で小さく触れていただけだったから、真澄が不思議そうな顔をするのも頷けた。

「そういう問題じゃないんだけど」

やはり真澄は、明らかに、知らなかったと言いたげに表情を曇らせた。写真以外には目を向けていなかったのだろう。 一直線なのは良いことだけど、と黄瀬は少しだけ眉を下げた。彼女にとって重 要なのは、黄瀬が載った雑誌を傷つけられたという事実だけだった。

「そっか、わかった」

なまえは頷くと、鞄の中に手を突っ込んだ。黄瀬は隠れて見ていたのを忘れ て、え、と声をあげそうになる。次に彼女の手が出てきた時、そこには同じ雑誌が握られていた。

「はい。これでいい?」
「何、持ってたの」
「うん」
「なまえも黄瀬くん好きなの?」

急に親しげな口調になる女に、おいおい、と突っ込みそうになった。みんながみんなおまえみたいに、好きなわけないだろ。っていうか本人いるんスけど、と言う代わりに、今度は机に伏せる格好を取る。

「まあ、好き……かな」
「ふうん?」

黄瀬も意外に感じて、ふうん、とこっそり思う。ふうん、そうなんだ。緩んだ頬を誤魔化すように、伏せた腕に擦り付けた。

「でもなんか、遠いよね」

そうだよね、と真澄も頷いたようだった。そうっスかね、と黄瀬はまた、目をとじる。 同じ教室にいるのだ。遠くなんてない。自分にそうやって言い聞かせるまえに、控えめなチャイムが鳴った。

拾い上げた16才・2


灰色の埃がひしめくゴミ箱の中に、不釣合いに明るい色を見つけたのは、およそ偶然ではない。 なまえの席へと進めていた足を止め、そこを覗く。肩からエナメルバッグがずり落ちて、どすん、と重い音を立てた。ついでにプレゼントの詰まった紙袋も傍の棚に置く。 あたりは暗い。部活が終わった後、教室に忘れ物を取りに来たのだった。

「何してるの」

責めるような声が聞こえたのは、開け放されたままのドアの向こうからだっ た。思わず、いたずらが見つかった子供のように、思わずびくりと肩を震わせる。

「いや、その、雑誌」

自分よりずっと小さなはずの少女が、 ひどく恐ろしいものに見えて、黄瀬はしどろもどろになる。

「みょうじさん、 帰ってなかったんスね」

先生に呼ばれてて、と彼女は視線を逸らした。

「それより今、それ拾おうとしてた?」

それ、というのは言わずもがな、雑誌の切れ端のことである。「それ?」と、 黄瀬は惚けた。「何のことっスかね」 笑って答えるにも限界はある。案の定引き攣る表情を、なまえはじとりと見つめた。

「黄瀬くん誤魔化し方が下手なんだけど」
「そりゃあ」

ゴミ箱の中に再度目を落とす。ぐしゃぐしゃに捩れた女優はそれでも笑顔のままだった。

「みょうじさんから見たら、 しょうがないっスよ」
「何のこと」

今度はなまえがわずかに目を泳がせた。

「オレは役者じゃないから」

君と違って、と続けてから、黄瀬はしわくちゃの一ページを拾い上げる。

「別に、責めてる訳じゃないよ」

鋭くなった視線から逃れるように言って、ついていたホコリを丁寧に拭う。机の上で皺をのばすと、ひねくれた目の女優と目が合った気がした。

「だからそんなに、睨まないで」と苦笑する。嫌われることはしょっちゅうなのに、勝手に居座っていた場所から、手酷く追い出されたような寂しさがあった。

いくらか険の抜けた、どちらかといえば気まずそうに逸らした顔で、なまえはぽつりと言葉を落とした。

「知ってたの?」
「中学の時からね。言わなくてごめん」

言いながら黄瀬は、やっとのことで探し当てた二、三個ほどの古いインタビューを思い出す。――プライベートで変装? そんなの、しませんよ。でもびっくりするくらい野暮ったいから、知ってる人でもわからないかも。

「だって、日本じゃ知ってる人の方が少ない映画なのに」
「それでもオレはファンなんよ。この子と君の」
「私の?」
「"みょうじなまえ"がみょうじさんでよかった」

雲の向こうに佇んでいた、とっくに沈んだと思っていた陽が、最後の悪足掻きと橙を投げ掛けた。

「やめたほうがいいよ」

なまえはそれに、眩しそうに目を細める。

「……大好きだった原作の実写に誘われたのに、好きじゃない人とのキスなんて嫌って、役を放り出した女だよ。 役者失格でしょ」

泣くのを我慢しているようにも見えて、黄瀬は人知れず唇を噛んだ。

「じゃあ、いつになるかわかんないけど。オレとすればいいじゃないスか」と、気付けばとんでもないことを口走っている。

「は?」と声をあげて、案の定彼女は目を丸くした。はじめて見た表情だった。 それを見て自分の発言は間違いではなかったと、心を落ち着かせる。「話聞いてた?」と驚いたままの彼女を、正面から見据える。

「だから、絶対好きにさせてみせるよって口説いてるつもりなんスけど。そしたらオレとしよ。映画」

「……正気?」

「本気」

頭おかしいんじゃない、とひとりごちる彼女の頬が赤いのは、もう夕日のせいではないだろう。きっと黄瀬もそうだっ た。

「幸せな恋人同士だったんだよ?」

そう不安気な瞳が揺れる。

「ずっと一 緒にいた二人が、彼の誕生日に結婚するっていう約束で結ばれる話」

よく知っている。黄瀬は頷いた。

「私はそれさえ嫌だった」

頷く。

「人生は一回しかない のに、結婚だって一回しかしたくないのに、他の人との疑似恋愛なんて演じられなかった」

「だから、オレとしよ」
「黄瀬くん馬鹿なの」

「馬鹿じゃねーよ。言ったでしょ、本気なの」

とうとう訝しみ始めたなまえは及び腰である。黄瀬は荷物を拾って大事そうに雑誌の切れ端をしまうと、立ち尽くしたままだったなまえの背を押して、廊下に出た。

「そういえばオレ、今日誕生日だったんスわ。プレゼント代わりにこの約束、覚えててくれないっスか」

囁かれる26才・2


「私たち破局なんだって?」 といっても楽しそうでもなく、むしろ怒りを露にして浅ましいものを見る目で彼女は鼻を鳴らした。ほんのりと目許が赤い。「浮気とか、ねえ」

多少覚悟していたとはいえ、誕生日にふさわしい、御馳走の並んだテーブルを光らせる照明の明るさを思い描いていた黄瀬は、少なからず面喰らった。 最低限に点いたライトとテレビの青白い光だけがそこにある。磨かれたテーブルには、皿さえも置かれてはいなかっ た。代わりに空になったティッシュペーパーの箱が、ぐしゃりと潰されたまま転がっている。 週刊誌の発売は確か今日だった。 そして彼女は外に出ておらず、つけっぱなしのテレビからは報道番組のコーナーが続いている。黄瀬はすぐに青くなった。「写真見てないんスか」この様子ならそうだろう。

「手繋いでたっていうやつ? 見てないよ。まさか手が重なってそう見えたんスよ、とか言い訳をするつもり?」

「違うって」

「さぞ可愛い子なんでしょうね」

「オレがそう言っても自分は野暮ったいって聞かない子だからなあ」

そう言っただけで、なまえは呆けた顔になる。

「え?」
「みんな、披露宴のときのなまえしか知らないから」

携帯の画像を見せる。なまえの反応はわかりやすかった。小さい声で「ごめん」と呟いて、すぐにきまりが悪そうに俯く。少しは予想もついていただろうに、ほっと胸を撫で下ろす様子が微笑ましい。黄瀬はほんのりと赤くなっていた目許に、指でそっと触れてやった。 そのまま合わせずともふたりで目を向けた額には、着飾った二人が幸せそうに 並んでいる。 傍目から見てもなまえは、モデル上 がりの俳優に決して見劣りなどしない。 心なしか笑顔が固い気もするが、それもいま目の前にいる彼女と別人に見える理由のひとつだろう。

「っていうか、 なまえの全部を知ってるやつなんてオレだけでいいんスよ、本当は」

見ていた額の隣には、いつしか拾い上げたくしゃくしゃの一ページも飾ってある。 息をついたなまえが柔らかく表情を崩した。「でもいい加減、あれは外して欲しい」嫌がるなまえを宥めて置いたものだった。

「ダメ、あれもオレのだから」

食べよ、とまっさらな食卓にふたりでつくと、黄瀬は手に提げていたケーキをそこに置いた。 ろうそくはないけれど、とお決まりの歌を口ずさむ。

「ハッピーバースデー、 はい」

「Happy birthday,dear涼太」

「さっすが、発音綺麗っスね」

「Happy birthday to you.」

火を消す吐息の代わりに口付けをひとつ落とせば、なまえは小さく黄瀬の耳 に囁いた。

「誕生日おめでとう。ちょっとしたプレゼントも用意できなくてごめん」

「いいよ。あんな騒ぎになっちゃったしね」

代わりに、となまえは照れくさそうに笑う。

「あの二つの額にいるわたしも、今ここにいる私も、ぜんぶあげるよ」

囁かれる26才・3


もたれ掛かって眠る彼女の香りに包まれながら、黄瀬はひとりで夢を見た。 飾らない彼女が、黄瀬の隣で堂々と姿を晒している。浮気騒動の謝罪会見であることはすぐにわかった。 それよりも目を見張るものがある。 なまえが、幾多のフラッシュをものともせずに、黄瀬に腕を絡めて立ってい た。――それも、普段の、着飾らない姿で。

「みょうじなまえじゃないか、あれ」

誰かがそう言う。すると人は泡のように膨れ上がって、我先にとその瞳を隠す眼鏡だとか、艶やかな髪を束ねるヘアゴムだとかを取り去ろうと群がる。

「違います」

凛と響いた声に、群衆は動きを止め た。なまえはもう一度、大きく息を吸い込んで、言う。

「みょうじなまえじゃない。私は黄 瀬なまえです」

始まりの14歳


出された課題――それも成績が転落しないための救済措置である――の空白を適当に埋めていたペンを、もう限界と言わんばかりに黄瀬は投げ出した。英語係の女生徒が提出日を誤魔化してくれた が、どうせ明日には無駄になってしまうだろう。今日も残って手伝ってくれていた、野暮ったいが面倒見の良い女子だった。 そのまま伸びをする。少し水を飲もうかと下りたリビングでは、いつのまに 帰ってきていたのか、姉がテレビの前でくつろいでいた。 傍らに英語で書かれた雑誌があるのを見て、げ、と嫌な顔をする。「あんたも英語くらい読めるようになってないと駄目よ」と、目敏い姉がこちらを一瞥もせずに言った。

「事務所ってどれ」 と、黄瀬は話題を逸らす手段に出る。 「ほら、前話してた」

姉が芸能事務所に勝手に送ったという写真は、黄瀬の予想を遥かに越える結果をもたらした。 合格の電話を受け、それからの返事は保留という形でいる。正直あまり興味はなかった。どうせ大したものではないだろうという先入観に支配されて、どこか 新しい場所へ一歩も踏み出せないようがんじらめに縛られている心地しかしない。

「これだけど」 姉はその雑誌を拾うと、とあるページを開いて突き付けてくる。黄瀬は眉間に皺を寄せて、避けるように仰け反った。 海外でもよく読まれるものらしく、同じページにも英語の文章がちまちまと載っている。 押し付けられたがままに、しぶしぶ受け取った。事務所名と、住所と、宣伝文句だけが並んでいるだけの簡素な広告だ。ふうん、と誰ともなく呟いて、手持ち無沙汰に主な輩出者を眺める。「……ん?」

「気になることでもあった?」

「うっわ、こんなちっさいときから海外の映画に出れるなんて、どんだけ喋れんだよ」英語を。 隣に並べてあるのは、洋画のポスターだろうか。現在の写真よりいくらか幼い風貌の彼女が、正面を飾っていた。

「ああその子、もう役者さん辞めちゃったんだって」

「は? 主役とか張っといて?」

もったいない、と黄瀬は心のこもっていない声をあげる。まあ関係ないけど。

コップ一杯に満たされた水を飲めば、 そんなやり取りはもうどこかへ流れてしまっていた。 机の上に置き去りにされていた課題と、ランプの点滅する携帯をしばらく見比べてから、後者を手に取る。メールの着信だった。本を間違えて持って帰っていないかという、英語係の女子からだった。 そういえば自分が課題をやっていたとき、傍らに本が置いてあった気がする。 首を傾げながら鞄を探ると、案の定それらしいものが出てきた。ぱらぱらと捲ると洋書である。げえ、と声を上げながら、文面を考えるのも面倒で通話ボタンを押した。

「もしもし、黄瀬くん?」と、相手はすぐに出る。

「あー、本。あったっスよ。英語のでしょ」

「そうそう。ありがと、なくしたと思って焦ったあ」

「これ読めんの?」

「うん、私、海外にいたから」 その本大好きでね、と普段からは想像もできないような明るい声で、彼女の話が始まる。

面倒だと思って、途中で切ってしまったから内容はよく覚えていない。 確か誕生日の日にプロポーズをするような、そんなありきたりな話だった。た だあまりにも熱っぽく話す声音に少し興味が顔を覗かせて、そんな役やれたら楽しそうだな、と思って、モデルからでもいいか、なんて、気まぐれに事務所に電話をしたことだけ覚えている。

14歳の誕生日だった。


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