夢野さんと静蘭華さんを二人っきりにしてしまっていたことが気になって後ろに視線を向ける。
ハッとした時には既に遅かった。
ガっと勢いよく夢野さんが静蘭華さんの手を握る。え?って思った時には彼女の口がいつものように開いて
「静蘭華さん、超騙されてますよっ!!」
「は?」
吐き出された台詞に静蘭華さんが眉間に皺を寄せ固まってしまった。
父さんたちもいきなりの発言に驚いてぽかんと口を開ける。
「滝せ──違う萩之介さんが優しいとかそれ本当に幻想ですよ!知ってますか、あの人めっちゃドSですよ!ほらよく見てください!お化粧で誤魔化されてますが私のほっぺ薄らと桃色!これ抓られたんですよっ!クソ痛いんですよ!それをいつも味わってる私めっちゃ可哀想!!」
「ちょっ」
何を早口で言い出してんの。この子。
「そりゃ私も初めは超優しい穏やかな人だと思ってましたけど、常識人の人は人を着せ替え人形にして弄んだりしないと思うんですよ!そして着替えすら用意させずに大勢の人間の前で恥を晒させる鬼畜ですよ!あれは鬼の所業でしたよ!あと、自分に関係なければ他人の不幸は蜜の味みたいな笑い方するし、いつも私の頬肉虐めまくるし……っあれこれさっき言ったな……まぁいいや。取り敢えず、萩之介さんは全然優しくないです!!いつも人の事情ガン無視しますし、なんか意外と強引ですし!たぶん結婚したら静蘭華さんが超苦労します!!辞めましょう、今なら悪魔との契約せずに逃げれますよ、いや超逃げて!!」
「……詩織さん?そんなに俺の事が好きなんだねぇ〜」
「はっ?!はぎゃわわわっ?!」
お望み通り夢野さんの右頬をぎゅうっと抓ってあげる。
それから一度抓るのを止めて、両手でパンっと左右から頬を勢いよく挟んだ。「ほぎゃ!」とまた変な奇声を上げた夢野さんにくっと喉が鳴る。
ポカーンとアホみたいに口を開けっ放しの静蘭華さんと父さんたちに笑顔を浮かべてから「……じゃあ俺たちはこれで」と会釈した。
「ま、待って……!萩之介様っ」
静蘭華さんの声に振り返ったら、彼女らしくもない綺麗な笑みで微笑んでいて。少しばかり潤んだ瞳の中に俺が揺れている。
「……萩之介様、本当にその方が好きなんですね」
「……え」
思わず瞠目した。
いや、俺は──
隣で両頬を摩って涙目で「うー……やっぱりドSだよぉ」とまた失礼なことを口に出している夢野さんを見る。
その表情を眺めるだけで、ふっと口角が上がって、穏やかな気持ちになった。
でも腹が立ったのでペチンっと夢野さんの後頭部を軽く叩いてから、静蘭華さんに向き直る。
「女性の愛情は、天才を飼い馴らし、平準化し、枝を切り、削り、香りをつけることに専念する。そして、ついには天才を自分の感受性、小さな虚栄心、平凡さ、それに自分たちの社交界の平凡さと同程度の者にしてしまう──ロマン・ロランの格言さ。静蘭華さんは俺を見誤ってたと思う。だから君のことは嫌いじゃないけど、婚約者にはなれない。もしなっていたとしたら、それはお互いの不幸の始まりだ」
「……そうですね。私は本当の萩之介様を理解出来ておりませんでした」
腹黒い笑い方で「ふふっ」と微笑んだ静蘭華さんは、俺への興味を失ったのだろう。
自分の思い通りにいかない存在だと知った俺は、たぶん彼女の利用価値から外れたのだ。
「……なんだ、滝先輩が初めからドSさを全面に出せば私がこんな苦労しなくても──」
「あはー、生意気なことばかり口に出すのはこのお口かな?何?俺にそんなに虐められたいの?」
「──すみませんすみません!本当にごめんなさい、だから私の頬肉虐めないで!そろそろこぶとりじいさんみたいに取れそうです!!」
うわぁ。それは気持ち悪いなぁと思ってパッと手を離したら、夢野さんが「今気持ち悪いって聞こえた……!ひどい、泣きそう!心が折れそうっ」とまた盛大に嘆き始める。
「ねぇ、詩織さん。私、貴女のこと面白いから気に入ったわ。私のペットにしたいぐらい」
「静蘭華さん、すみません!私そんな趣味はありません!うっかり綺麗な女王様的な微笑みにドッキリしてしまったけど、違う!下僕と書いてペットと読むのはやだ!すみません!」
それから夢野さんを気に入ってしまったらしい静蘭華さんが、彼女の持つヴァイオリンに気づいて聴いてみたいと言い出した。
ヴァイオリンのことを口に出されると断ることが基本的に出来ないのだろう。夢野さんは少し嬉しそうに着物姿でヴァイオリンを構える。
「……あぁ」
いつもの俺の家の中に響くことのない音楽が、屋敷全体を包んだ気がした。
ちらりと視線を送れば、父さんたちもずっとそこにいて、彼女の演奏に耳を傾けている。
──まさしく音楽こそ、精神の生活を感覚の生活へと媒介してくれるものです──
ロマン・ロランがベートーヴェンの生涯について書いた本がある。そこに書いてあったような言葉が頭に浮かぶ。
そしてこれはどこで目にした彼の言葉だったか。
──他人の上に太陽の光を注がんためには、自分のうちにそれをもっていなければいけない──
楽しそうにヴァイオリンを弾くその姿に、きっと彼女は自分の中に確固たる太陽があるのだと思った。
目を細めてしまうほどの眩しい光。
それが俺を照らしてる。
ドボン……っと
俺は湖の底に沈んだ気がした。
水面を照らす眩い光に手を伸ばして、必死に伸ばしてその光の先──熱い太陽を求めるけど、なかなか浮上すら出来ない水の中。
ここに同じように沈んでる仲間たちを知ってる。だから藻掻くのは辞めようか。
そんなことをぼんやりと考えて。
でも、それでも──
「詩織さん、やっぱり君のヴァイオリン好きだな」
演奏の終えた彼女にそっと近づく。詩織さんのヴァイオリンがとてもレベルの高いものだと俺は知っていたけど、知らなかった静蘭華さんも父さんたちも心底驚いたようだ。使用人たちも数人仕事の手を止め、彼女を凝視していた。
「滝先輩……もう演じなくても良いのでは──」
「演じてないよ。これは俺の本心。……だって、俺、君のことが好きになったんだ。本気で、ね」
「──え?」
チュッと額にキスを落として、そのまま右頬、左頬と啄むようなキスを落とす。
逃げられないように頬に手を添えたけど、その時にさっと触れた彼女の髪が柔らかくて、どうしようもなく愛しくなった。
目を見開いて、その大きな双眸に俺だけが映る。
なんて愉快な気分だろう。
「っ、たっ!」
その時、ガサリっと中庭の植木が揺れて。
「滝のバカぁーっっっ!!」
「じ、ジロー先輩っ?!」
飛び出してきたジローがプクぅっと頬を膨らませながら、着物姿の詩織さんに抱き着いた。
「えー、いきなり酷くない?」
「全然酷ないわ。つか自分ほんま腹立つわぁ。なんなん、詩織ちゃんの名前下の名前でそのまま呼び続ける気か」
「あはは、そうだねえ。そうするつもりー」
ジローに続いて不機嫌そうな忍足にへらっと笑ってやる。
ゾロゾロと茂みから姿を表した仲間たちは一言ずつ俺に嫌味を言ってきて。景吾くんにはボスっと頭に貸してたロマン・ロランのジャン・クリストルの最終巻を乱雑に置かれる。
それから最後に日吉が俺を涼し気な瞳で見た。
「……後悔させますよ。俺への助言」
「だよねー。もう既に後悔してるかもー」
すっと俺の隣を抜けて詩織さんの隣に立った日吉に目を細める。
──少しのきまじめさは恋愛においては結構だ。しかしあまり真面目すぎては困る。それは重荷であり、快楽でなくなる──
「……やるねー」
いつもの台詞を呟いて、頭に浮かんだロマン・ロランの言葉に目を閉じた。
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