そっと息を吐いてそのオルゴールの蓋を開けた。
ネジを回せば、聞こえてくるのはなんてことのない、オルゴール曲として一般的な『エリーゼのために』が流れてくる。
私が産まれてきたのを記念してお父さんが買ってくれたオルゴール。
引っ越す当日もこのオルゴールを開いて、この曲に泣いたのを覚えていた。
それから……
オルゴールの中に大切に閉まっていた一通の封筒。
少し色褪せているそれを手にするだけで胸が温かくなる。
封筒の中から手紙を取り出し、開くと同時に記憶していた文章をスラスラと口に出した。
──君の音楽が好きです。
特に、グレン・ミラーさんのムーンライト・セレナーデが大好きです。
僕の好きな音楽を君が奏でると、より一層好きになります。
神奈川に引っ越してきて、まだ友達のいなかった僕に勇気をくれました。
ありがとう。
手紙の王子様から貰ったものはたったこれだけ。
だけど、これは小さい頃──人が怖くて泣いていた日々──の支えにどれだけなってくれただろう。
そして、この手紙と同じく私には大切な思い出がある。
あの日は雨で。
まるで天気が私の心と同調しているかのように思えた。
その時に声をかけてくれた男の子がいて、束の間だったけど、寄り添ってくれたその子のことをずっと覚えている。
「……その子が仁王さんだったんだ」
今日、仁王さんの弟くんに出会ってわかった。
だって、あの時の男の子と弟くんは瓜二つだったから。
ブン太>ちゃんと帰れたかー?
パンダ詩織>はい、ホームセンターに寄りましたけど、もう帰ってご飯も食べましたよー。
丸井さんから送られてきたメッセージに返事を返して、お風呂を洗って沸かしながら仁王さんからメッセージが送られてくることを期待した。
ブン太>今度俺にも何か作ってくれよぃ!そしたら、俺はケーキ作ってやるぜ!
パンダ詩織>ケーキ作ってくださるなら、幾らでも丸井さんにご飯あげます!……あ、でも底なしな気がするから、量は規定量までで。
ブン太>規定量ってなんだよぃ?
パンダ詩織>なんでしょうね?
それから丸井さんが腹減った!みたいな可愛いブタさんのスタンプ押してきたから、ちょっと吹いた。
やっぱり丸井さんは可愛い人だと思う。
その後、今度は幸村さんから「……ごめんね。もう君の気持ちが決まるまで、あんなことはしないから、どうか俺とまた普通に話して欲しい」とメッセージがくる。
すぐにわかりましたと伝えた。
……まだ仁王さんからは何も音沙汰がない。
ジロー先輩や忍足先輩からもメッセージは届いたけど、送るって言ってくれてた仁王さんからのメッセージはまったく届かなくて。
こんなにも早く聞きたいことがいっぱいなのに、と妙に焦った。
こんなにも仁王さんからのメッセージを待っているなんて。恋してるのかって程で。
「もういいや、気になるんだから自分から行動!ということで発信……っ!」
スマホから仁王さんが設定してる待ちうたの曲が流れてくる。
この曲は知ってる。
グレン・ミラーのムーンライト・セレナーデ。
それの歌謡曲バージョン。
……あぁ、この曲はこんなにも甘ったるい雰囲気の曲だっただろうか。
『……もしもし?』
そして耳に聴こえた声音に思わずドキリとしてしまった。
「に、仁王さん……あの」
『夢野さんじゃろ。いきなり驚くナリ。どうかしたのか?』
「や、あの……仁王さん、どうして言ってくれなかったんですか?昔、雨の日に、公園で私が泣いている時に、慰めてくれた男の子……仁王さんですよね?!」
言葉を吐き出すのでいっぱいいっぱいで、ちょっと緊張し過ぎてきちんと吐き出せたかわからないけれど。
『そうじゃが……まぁ別に言わんでも』
「昔のことだからですか?」
『違う!……あ、いや……それは違うナリ。そもそも、俺は初めっから……五月の合宿の時には告げようとしてたぜよ』
「……え?」
『その男の子はこう言っておまんさんに近付いたじゃろ。……辛いんなら辞めんしゃい。……それ言おうとしたら、躓いてお前さんの胸を鷲掴みじゃ……そしたら、夢野さん、俺の事を避けよるし……』
かぁっと顔が熱くなる。
あの時のあれか……と思ったけど、だってまさか仁王さんがなんて考えないし!
『でもほら……まぁ、サバイバル合宿でおまんさんのファンとは言えたことじゃし……俺はそれで十分ぜよ』
「仁王さん……本当にありがとうございます。……私、仁王さんがずっと私のヴァイオリンを好きだって言ってくれて、嬉しかった。……ジャズの曲ももっと練習して……」
そこで私はふと手に持っていた手紙の封筒を裏返す。
そこにはファンレターを送ってくれた子のイニシャルが書かれていた。
「……M・N……仁王、雅治……」
『っ?』
「仁王さん……あの。……君の音楽が好きです。特に、グレン・ミラーさんのムーンライト・セレナーデが大好きです。僕の好きな音楽を君が奏でると、より一層好きになります。神奈川に引っ越してきて、まだ友達のいなかった僕に勇気をくれました。
ありがとう。……この手紙、知りませんか」
尋ねていない。
それは確信だった。
先程の待ちうたの曲もムーンライト・セレナーデで。
『……本人の前で一度読ませたくせに、また今度は本人に電話越しで朗読とは……夢野さんはドSじゃな』
そう電話向こうで薄く笑った仁王さんは『……もう寝るぜよ。おやすみ』とだけ言い逃げして通話を切られた。
無音になったスマホを耳から離し、へたりとリビングの床に座り込む。
耳が熱い。
「……どうしよう」
小さい頃から、ずっと。
私が泣いたその度に心の支えにしていた手紙を書いた人が、こんなそばに居たなんて。
天才少女だと持て囃されて露出が増えて、心無い言葉を吐き出された時も。
憎悪され、人が怖くなってヴァイオリンが弾けなくなった時も。
両親を失って一人で泣いたあの日の時も。
ずっとずっと私を、支えてくれた手紙。
その手紙を書いた人が仁王さんで。
この胸に今抱いた想いは一体なんなんだろう。
ただただ、仁王さんときちんと話したいと。
それだけ強く願ったのだった。
102/140