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伊月先輩を好き避けした結果

「そういえば、最近どう?」
「? 何がですか?」
「伊月君と」
「ぶっ」

 思わず飲みかけていたお茶を吹き出してしまった。「あら汚いわね」とか聞こえるけど関係ない。というか私が吹き出す原因を作ったのはリコ先輩だ。
 部室で机を挟んで向かい側のリコ先輩の顔を見上げる。心配そうな顔をしながらなも口元がにやついていることに気付いていないんだろうか。「大丈夫?」と笑いながら聞いてくるリコ先輩は絶対に楽しんでいる。
 リコ先輩から「一緒にお昼を食べない?」と誘われて、部員でもないのに部室に連れてこられた時から何かあるとは思っていたけれど。
 思わずため息を一つ。「ねえ、どうなのよ」とせっついてくるリコ先輩を無視してお弁当を食べる。
 理由は分かっている。だけど、どうすればいいのかわからない。気持ちの整理がつかないというか、自分の心がわからないというか。

「なんかあったんでしょ? あれだけ伊月君になついていたくせに、最近ぜんぜん近寄らないじゃない」
「そんなこと……ありますけど。でもリコ先輩には」
「関係あるわよ。中学の時からの仲じゃない。可愛いかわいい後輩に無関係って言われたら、リコ、泣いちゃう」

 嘘泣きを始めるリコ先輩は絶対に私のこと可愛い後輩とか思ってない。本当に可愛い後輩ならそっと見守ってくれるはずでしょう。
 私の心の声が聞こえたのか、「最近部活に来ないじゃない」という、およそ本心らしい声が聞こえた。やっぱりか。

「そりゃ中学では私もバスケ部でマネしてましたけど」
「今だって正式入部してないだけで、似たようなもんじゃない」
「高校ではバイトを頑張るって決めてたんです!」
「へえ。その割に最近急にバイトに熱心になったようだけど? 貯金以外の使い方、あるの?」

 呆れたような視線を向けるリコ先輩に押し黙るしかなかった。週に何度かバスケ部に顔を出してマネージャー業みたいなことをしていたけれど、最近めっきり寄り付かなくなったのは確か。代わりにバイトのシフトをたくさん入れるようになったのは、放課後伊月先輩に会わないようにするのが目的だったから。欲しいものがあるわけでもないから貯金箱がどんどん潤っていっていて、本当にリコ先輩の言う通りだ。
 食べ終わったお弁当箱をしまいつつ、なんて言い訳しようか、と考えていたら背後で扉を開く音がした。どうせ日向先輩辺りだろう。だってここにリコ先輩いるし、実際リコ先輩は私ごしに手をふっているし。

「伊月君、奇遇ねえ……?」
「え」

 聞こえた名前に驚いて後ろを振り返れば、噂をすればなんとやら。今最も会いたくないタイミングで会いたくない人が部室の入り口に立っていた。片手に通話中と表示されたスマホを持っている。

「サンキュ」
「ふふ。邪魔者は消えるのでごゆっくり〜」

 リコ先輩は「部活までにはなんとかしなさいよ」なんて言って手をひらひらふりながら部室から出ていってしまった。きっと教室に戻るのだろう。嵌められた……?

 唖然としながら出ていったリコ先輩が出ていったあとの部室のドアを見つめていると、ギィという椅子を引く音がした。どうやらリコ先輩のいた席に伊月先輩が座ったようで。気まずい。今すぐリコ先輩の後を追いたい。席を立とうかどうしようか迷っているうちに伊月先輩が口を開いた。

「あのさ、一応聞くけど」
「……はい、」
「千恵、避けてるだろ。俺のこと」
「ッ……だって!」

 咄嗟に先輩の方を向いて、後悔した。伊月先輩の切れ長の瞳に捕まると、目が反らせなくなる。そして、思い出してしまう。先輩の、言葉を。

「俺が千恵に好きだって言ってから、避けてる」

 カアァ…っと顔が赤くなったのが自分でもわかる。好きだなんて、言われたって。

 彼の視線の先に居たいと思うけれど、いざ視線を向けられると、どうも気恥ずかしくなって直視できないし、むずがゆい気分になって隣にいられない。
 伊月先輩から言われた好きという言葉は確かに嬉しかったはずなのに、そのあと伊月先輩が他の女の人と喋っているのを見ることは耐え難くなった。それが例えリコ先輩でも嫌でしょうがなかった。その反面伊月先輩に名前を呼ばれると自分が自分じゃなくなるようで。

 それまでよく遊びに行っていた先輩たちの教室にも行かなくなったし、部活でもできるだけ接触を避けるように動いてしまう。もう本当に、どうしていいか、自分がどうしたいのかわからない。

「そんなに避けられるなんて思わなかったよ。こんなことになるなら、言わない方が良かったかな」

 悲しそうな声色にちらりと伊月先輩を見れば、困ったように、寂しそうに笑っていた。その意味を考えたくなくて机に視線を落とせば、机に置かれた先輩の腕が目に入る。うっすらと血管がういてみえる、鍛えられた腕。血管の数を数えるようにそのまま腕を見つめていたら、腕に力が入ったのがわかった。机に影が落ちて――、伊月先輩の香りに包まれる。頭に重りを感じて、やっと伊月先輩に撫でられていることに気が付いた。
 先輩の手を意識した瞬間、思わず肩が震える。「千恵」と、寂しそうな声で名前を呼ばれた。

「俺のこと嫌いになった?俺は、千恵がなついてくれて嬉しかったし、避けられて……寂しいよ」

 嫌いだなんて、そんなわけない。むしろ。
 伊月先輩はかっこ良くて、優しくて、なんでも気付いてくれて、憧れの塊みたいな先輩なのに。対する私は、ぺーぺーのなんちゃって無所属マネージャー(仮)で。そんな人が私を好きになってくれるなんて思えるわけないでしょう?
 期待と少しの恐怖が入り混じって、自分の鼓動の音がやけに大きく感じた。私だって、先輩の言葉が嬉しくなかったわけじゃない。だけど、その言葉が持つ意味を考えるとどうしても怖くなって結論を先送りしたくなる。

「からかっているなら、」

 やめてください。そう言い終える前に、ぐいと腕を引っ張られた。急なことに踏ん張りがきかず、中腰になる。頭を撫でていた伊月先輩の手が、するりと私の後頭部を撫でて、そのまま首筋に添えられて。唇が、重なった。

「は……ん……」
「千恵……ッ」
「っん……せん、ぱ……」

 求めるようなキスに顔が熱くなる。いきなり生暖かいものが口の中に入ってきた。それが先輩の舌だと気づくのに、そう時間はかからなかった。深くなるキスに、息がもたなくて口を離そうとしたけど、伊月先輩がそれを許さない。苦しくなって、机に手をついて身を引こうとしても伊月先輩との距離は変わらなかった。机をいく度か叩けば、静かに唇から熱が離れていく。
 ぼんやりとする頭でなんとか息を整えた。ゆっくりと顔を上げれば、伊月先輩はまっすぐに私を見つめている。また一気に気恥ずかしさがこみあげて、視線を逸らす。

「本気だよ、俺は」

 ため息が聞こえる。机の上に置いたままだった手に、伊月先輩の手が重なった。親指の腹で手の甲を撫でられる。

「中途半端な気持ちで、こんなこと言わないさ」
「……」
「ちゃんと本気だ。信じられない?」

 寂しそうな色を含ませて問いかける伊月先輩は卑怯だ。付き合いが三年目ともなれば、嫌でも分かってしまう。伊月先輩は私の気持ちなんてわかっていて、試すような物言いをしているんだ。答えなんて、ひとつしか聞く気が無いだろうに。
 先輩の手が顎にかかって、やや強引に前を向かせられる。それでも視線をそらそうとしたら、千恵と優しく名前を呼ばれた。諦めて伊月先輩を見れば、熱の籠った視線に迎えられた。やっぱり、先輩は声色とは違って寂しそうな顔なんてしていない。
 あなたがそんなんだから、私は自分がどうしたいかわからなくなるんです。ねえ、伊月先輩。

「俺のこと好きなら、千恵からキスして」

 一度目を伏せて、伊月先輩は細く息を吐いた。ゆっくりと開いた目は、また私をまっすぐに見ている。
 鈍色の瞳に、私だけが写っていた。

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