黙っててごめんなさい
すでに見慣れたものになったインターフォンを押せば、一瞬の間のうちに玄関の鍵が回る音がした。開くのを待たずにノブを回してドアを開ける。案の定、千恵ちゃんが入ってすぐの台所で何かを炒めていた。
後ろ手に鍵を閉めて、靴を脱ぐ。
「ただいま、千恵ちゃん」
「ん、おかえり」
いつも通りにエナメルバッグを狭いワンルームの壁際において、千恵ちゃんに催促される前に手洗いとうがいを済ませた。
「もうちょっとでできるけど、お腹すいてるよね?」
「減りすぎてやべー」
後ろの台所からかけられた声に、俺も背中越しに返事を返した。
緑間に負けてからここに通うにようになった俺に、最初の頃はしょうがないなあと笑っていた千恵ちゃんも、今では毎日寄ってもなにも言わなくなった。それが呆れなのか、日常になったからなのかはわからない
それでも、千恵ちゃんがうちに家庭教師に来る3日間以外、できるだけ週4日来るようにしている。そんな生活をしていれば、何がどこにあるかなんて聞かなくても分かるようになった。
「なに手伝えばいい? 箸? お茶?」
「あーうん。あと冷凍庫からご飯だして温めてくれる? おかずはもうすぐできるから」
「わかった」
単身向けの小さな冷蔵庫の中は、ある程度整理されているけれど、千恵ちゃんの性格を表すように、どこか散らかった印象を受けるように並んでいる。ばれないように素早く冷蔵庫に買ってきたスイーツを放り込む。冷凍庫からラップで包まれたご飯を出して、電子レンジに放り込んだ。
「今日さ、部活中に先生に呼び出された」
「え、怪我でもした? 大丈夫?」
口調は驚いているのに、千恵ちゃんの手先はいつも通り、味噌汁を二人分のお椀につけていた。
そんなことよりも、ひとかけらも俺に非があるから呼び出されたとは思わない千恵ちゃんからの信頼がくすぐったい。
「高校のバスケ部の人が来たらしくてスカウトされた。試合見たんだと」
「すごいじゃん! やっぱり、ちゃんと見てる人は見てるね、和成君が頑張ってること」
「受けようと思ってんだ」
「そっかー! いよいよ……高校生なんだね」
ちん、と存在を主張する電子レンジを開ければ、熱い蒸気が出てきた。ほかほかのごはんを茶碗によそう。
千恵ちゃんはおかずを大皿にもろうとしていた。青椒肉絲! やった。ご飯もう一杯分いるかもな。
茶碗をローテーブルに置きながら、そういえば高校の名前を伝えていなかったことを思い出す。
「桐皇高校っつーんだけど」
千恵ちゃんの手から菜箸が滑り落ちた。乾いた音を立てて床に落ちた箸に、けれど千恵ちゃんは気づいていないのか、信じられないとでもいうように俺を見ていた。
「とう、おう……?」
「落ちた菜箸、洗うけど取りあえずは使わねーよな?」
「え、うん、……ありがと…………そっか、桐皇か……」
「? なあ、知り合いでもいんの?」
「そういうんじゃないよ……ねえ、受けるんだっけ。桐皇」
「そのつもりだけど?」
千恵ちゃんは上の空のようだった。眉間にシワを思いきり寄せて、どこか遠くを見ている。
名前を呼べば、はっとしたように俺を見て、食べようか、といった。
あたたかいご飯を食べても、どうしても千恵ちゃんのさっきの行動が気になってしまう。ごちそうさま、と箸をおいた千恵ちゃんに、聞くなら今しかないと思って口を開いた。
「なあ、千恵ちゃん……さっきのはさ、桐皇がバスケの強豪じゃないから、心配してくれてんの?」
「……うん、まあ、ね。ほら、強豪っていうと、泉真館とか、正邦とか、……秀徳みたいなところだし、そういうとこ行くかと思ってたから」
ちらりと視線をそらして、首筋に手をあてながら千恵ちゃんはやや早口に返した。誤魔化すときの癖だ。でも、何を?
「……詳しいんだな」
「和成君のことだから、気になっちゃって」
ちらちらと揺れる千恵ちゃんの瞳を追う。
これはダウト、……? 微妙だ。完全に嘘じゃないけど、本当でもないような。
なら、千恵ちゃんは何のために東京の強豪を知ったんだ? 俺のためで、無いというのなら。
「なんで……桐皇にしたの?」
「なんでって……他にスカウト来てねーし?」
「え?」
「え」
再び信じられない、と目を見開いて千恵ちゃんが俺を見た。なんだ、他の高校からスカウトが来ると思っててくれたわけ? そんなけ俺のこと買ってくれんのは嬉しいけど、あいにくとそこまで推薦枠も甘くはない。
「桐皇で和成君は自分のバスケができるの……?」
「最近、スカウトに力いれてるみたいでさ……キセキの世代の相棒に、だと」
「キセキの相棒って……」
「なんつーのかな、俺らが負けた中学にめちゃくちゃバスケ強いやつらがいんの。天才みたいな。そいつらのこと、全員まとめてキセキって呼ぶんだよ……同い年だから、三年間パス回せってことだろーな。試合に出れたとしても」
俺にこの視野がある以上、避けられないことだ。それはたぶん、どこのバスケ部でもそうで、違うのはチームにキセキの世代がいるか、いないのかだけだ。
――俺は、パスが生業みたいなもんだし?
それは俺がどうしても千恵ちゃんにだけは言えないことだった。ポイントガードもかっこいいと言ってくれたし、俺自身でゴールを決めることだってある。だけど小さい頃、千恵ちゃんがかっこいいといったゴールを連発するようなスタイルじゃない。それこそ、キセキの緑間や青峰のような。
今思い出しても都予選の結果が悔しくて、下唇を噛む。自然と下がる視界は、だけど千恵ちゃんの「謝らないといけないことがあるの」という声に釣られるようにして再び前を向いた。
今から謝ろうとしている人間がするような表情じゃない、懐かしむように細められた目は、俺だけを映している。
「去年の夏、電話したでしょう?」
「ああ……あのときは、本当にごめん」
千恵ちゃんに会えると思ったのに、急に練習試合が入った日のことか。急いで帰ったら5分前に千恵ちゃんは帰ったと聞かされた。
「えっ? 違うって。気にしてないよ、もちろん来なかったから不安だったけど……怪我してたとかじゃなくて、安心したぐらい。私の方こそ、もう少し待ってたら良かったね」
「別に千恵ちゃんが謝ることじゃねえだろ」
「優しいね。ありがとう。ええと、それでね……私受験のためにそのちょっと前から帰国してて」
「ん」
「見てるの。和成君が試合に出てるとこ……黙っててごめんなさい」
今度は俺が箸を手を滑らせる番だった。
去年の大会。確かに電話をもらう前の試合後に、千恵ちゃんと似ていると感じる人、いたけど。まさか本人だったのか?
不安にかられる俺の胸中をしってか知らずか、千恵ちゃんは「中々言い出せなくて」、とさらに俺の恐怖を煽るようなことを言う。
幻滅、されていたのだろうか。同情されているから、俺のことを受け入れてくれてたのか。
「それ、は――」
「うん、1番目立ってて、かっこよかったのが和成君だったから。試合前は見つけられるか不安だったんだけど、そんなこと忘れるぐらい、全然目が離せなくなっちゃって……だけどこんなこと言うの恥ずかしくて。ね」
「……は、」
「あ、えっと。それで、バスケ初心者の私はわかんないけど、和成君は強豪に行ってレギュラーになるってなんとなく……思ってたの……」
不安で不安でしょうがなかった俺を掬い上げたのは、だんだんと尻すぼみになっていく千恵ちゃんの言葉だった。
じゃあ、この一年、ずっと千恵ちゃんは俺のプレイスタイルを知っていたのか。
「俺のこと……かっこいいって、思ってくれてんの」
「ヒーローをかっこいいって思わないわけないでしょ?」
「パスメインなのに……?」
「パスメインだから、かっこいいの。和成君がいなきゃゴールまでボールが届かないでしょ?」
当たり前のことをなんで確認するのかとでも言うように千恵ちゃんは首をかしげた。
誰もが羨むような、派手なダンクを決めるようなエースじゃないのに。シューターでもないのに。それでも、俺がレギュラーになると信じている千恵ちゃんの言葉がくすぐったくてしょうがない。
気恥ずかしくて、意味もなくシーリングライトを見上げた。
「他に、他に行きたい高校って無かったの?」
「……秀徳もいいなって思ってっけど、推薦は来てねえし」
「勉強は、今のままなら大丈夫でしょ?」
「そっちじゃなくて。……桐皇、近えんだよ。こっからも、千恵ちゃんの大学からも。だから――」
「だめ!」
聞いたことがないくらい、鋭い声だった。弾かれるようにして見た千恵ちゃんは、また、あの目をしていた。泣きそうな顔で、俺を通して、俺じゃない誰かを見てる。
「ダメでしょ、和成君……ちゃんと、自分のこと一番に考えなきゃ。私を理由にするのは――」
「千恵ちゃんがすぐ居なくなるからだろ?! そうやってすぐ理由をつけて俺から離れてく……今だって!」
「私は……! 私は、ただ」
「なんだよ」
一度大きく口を開けたものの、千恵ちゃんはそれきり考え込むように黙ってしまった。
ゆっくりとお茶を飲み、細く息を吐き出した。悲しそうに、笑っている。
「……和成君の言う通りだね。私はここにいるから、だから、好きな道を選んでよ」
「はっきり言ってくんねーの」
「いいの、私のエゴだから。……ああ、でもバスケは続けてくれたら嬉しい。かっこいい和成君がまた見たいもの」
「あっそ」
ぎこちなく笑う千恵ちゃんは、はっきりと境界線を張って見せた。エゴってなんのことだ。何を考えているのかよくわからない顔をして、なにを思ってんの。
「……ねえ、和成君の持ってきてくれたデザートいただこう? ね?」
「気づいてたのかよ」
俺が小学生だったときと違って、それ以降話せなくるなんてことは無かったけど、俺の進路が話に上がることはなくなった。
やっと千恵ちゃんに近付けたとおもったのに。やっぱり、遠い。
それにしたって、なんで千恵ちゃんは、そんなに俺にバスケをやらせてーのかな。それとも、桐皇に行ってほしくねえのかな。どっちなんだろう。