long | ナノ
私のヒーローに不可能はないよ
 朝から雨が続いている。ザーザーとやむ気配のない音に、間延びしたインターフォンのチャイムが狭いアパートの中に響いた。今日はとくに宅配便が届く予定は無かったはずだ。

――何かの勧誘だったらどうしよう。

 息を殺して画面を覗けば、見慣れた黒髪が映っていた。妹の美和ちゃんとうちに来て以来、来たことのなかった来客に、びっくりして画面を凝視してしまった。はっとして慌てて鍵を開ける。扉の向こうには、ずぶ濡れになった和成君が立っていった。

「えっどうし、……まず上がって!」

 ぴくりともしない和成君を強引にアパートに引っ張り混んで、手近にあったタオルで拭いていく。勝手に悪いとは思いつつも、とりあえずエナメルバッグを下ろさせようと肩に手をかけた。

 どさりと鞄が落ちる音が響くのと、和成君にのしかかるように抱き着かれたのはほぼ同時だった。受け止めきれず、玄関にしたたかに腰を打つ。痛いという悲鳴を上げる間もなく、ぎゅうと抱きしめられた。首に噛みつかれたときも痛いけれど、それの非では強さに骨がきしむ。

「クソッ」
「かず、なり、くん……」
「……なんで、」

 私の胸元で、膝をついて肩を震わせる和成君を抱き寄せる。彼の服から水分が伝って、部屋着が肌にまとわりついて気持ち悪い。氷のように冷たい和成君に、私も身体の芯から冷えていくのを感じた。でもそんなこと、気にしている余裕なんて無かった。
 髪の毛から伝う雫がつくる輪染みが、まるで涙みたいだった。

「んんっ」

 服の上から首筋を思いっきり噛まれた。いつもより強い力に、思わず強張った身体をなんとかほぐす。強張ったこと、バレてないといいけど。
 ぎりぎりと噛まれたあと、再び噛みつかれたのは顎のすぐ下。ハイネックじゃないと隠せないかもしれない。
 和成君を拒否したい訳じゃない。強張りそうになるのも、爪を立てそうになるのも、なんとか抑えながら、和成君の背中に手を回した。ぎゅっと抱き締めても、噛んでは離してを和成君は繰り返していた。

 幾度も噛まれる首筋には、きっといつもよりも多く、深いはっきりとした、噛み痕が残るだろう。だけど、そんなことでこんな状態の和成君を放っておくなんてできなかった。
 ジャージの背中をゆっくりとさすっていれば、少しだけ落ち着いたらしい。ぽつりぽつりと言葉をこぼし始めた彼の声を聞き逃さないように、耳を傾ける。

「もっと、バスケがしてえ……なんだよ、キセキの世代って………なんなんだよ!……なんで皆諦めんだよ、あんな反則スリーだろうが…………初めから勝てないって決まってんのかよ! ……俺たちみたいな凡人じゃ、努力したって報われねーってのか……っ!」

 胸が締め付けられるような和成君の悲痛な叫びに、夏休み前、勉強の合間にした会話を思い出した。

---


「ねえ、バスケは続けてるの?」
「やってっけど」

 試合が見に行きたくて、聞いた言葉がきっかけだった。和成君の解いたプリントをチェックしながら、一時帰国したときに見た、彼のプレイを思い出す。

「ねえ、試合、見に行ってもいいかな」
「……やだ」
「え」
「ぜったい来んなよ」

 思わず赤ペンを握っていた手から力が抜けて、机の上を転がっていった。顔を上げて和成君を伺う。彼は体は私の方に向けたまま、壁の方を見ていた。

「……千恵ちゃんが想像してんのと、たぶん違うから」
「和成君が好きなバスケをやっているところを応援したいだけなんだけど。だめ?」
「ダンクを決めるような……花形選手じゃねえの、俺は」

 珍しく歯切れの悪い物言いをする和成君に相槌を打って返せば、驚いたような瞳と視線が絡む。「でも試合出てるんでしょ」と聞けば、ぱちぱちと灰色の瞳を瞬かせた。
 少しの嘘を混ぜて、続きを促す。

「おばさんに聞いたの。活躍してること。レギュラーなんだって?」
「まー、な。ポイントガードやってっけど……、けど……さ、」
「和成君は頑張りやさんだね」
「んだよ……誉めたってなんもでねーぜ」
「レギュラーになって満足するんじゃなくて、さらに上を目指してるんでしょ?」
「……そりゃ、勝ちてーし?」
「さっすがー! ねえ、今はなにを頑張ってるの?」
「……ゲームメイク」
「ふふっかっこいい! さすが和成君だね」

 伺うようにしてこちらを見る和成君は、私の言葉を疑っているらしい。心からかっこいいと思っているのに、それも和成君じゃなきゃできないだろうことなのに、どうしてそんなに自信なさげなんだろう。
 手にしていたプリントを机において、ベッドに座っていた和成君に近寄った。腰を折って彼と目線を合わせる。

「だってそれは、コート全体が見えてる和成君じゃなきゃ、できないことでしょ?」
「! 千恵ちゃん………好き」
「かわいいなあ、もう」

 中学三年生にもなってかわいいことを言う和成君の頭に手を伸ばして、さらさらの髪を梳くようになでれば、むっとした表情で手を取られた。さすがに、かわいい、は中学生男子にはまずかったかもしれない。

「本気だぜ、俺は」
「わかってるよ」
「わかってねーだろ」

 ふん、と鼻をならした和成君は、そのままそっぽを向いてしまった。捕まれたままの腕のせいで中腰がつらい。
 ベッドの足元に腰を下ろそうかな、と思ったときだった。

「次そんなこと言ったら、襲うかんな」
「こら、そんなこと言うんじゃありません」
「……いい加減、姉貴面やめろよ千恵ちゃん」

 ぐいっと腕が引っ張られた。咄嗟にベッドに手をついたけれどたいして意味は無くて、気付けば和成君の腕の中。
 高尾和成は自力で逆境を乗り越える人のはず。私が居なくても本来大丈夫なはずだ。だって、原作には私みたいなポジションのキャラはいないんだから。彼は支える側であって、支えられる側じゃなかったはず。
 けれど。

「千恵ちゃん」

 彼の腕から出ようと抵抗したとき、かすかな、聞き逃しそうなぐらい小さな声で私を呼ぶ和成君の声を拾った。離れることを嫌だとでも言うように頭を押し付けたまま抱きついている、私の幼馴染み。
 まるで昔の、私が引っ越す前の小さかった和成君に戻ったみたいだった。彼は一人で抱えて消化するタイプだと思っていたけれど、まだ少し、甘えたいのかもしれない。

 なんとか腕を一本外に出して、和成君の背中に回す。昔したみたいにトントンと、ゆっくりと優しく背中に手を添えれば、もう一度名前を呼ばれた。

「千恵ちゃん」
「うん」
「千恵ちゃん」
「和成君、なあに」
「……他の部員のやつら皆、無理だって言うんだぜ」
「大丈夫」
「……千恵、ちゃん」
「私のヒーローに不可能はないよ。大丈夫、何でもできるから」
「ん……」
「大丈夫、大丈夫」

 ぎゅっと腕に力が込められて、少しだけ、息苦しい。もう一度大丈夫と口にしようとしていたのに、耳元で落とされた和成君の言葉に、私は何と声をかけていいか、わからなくなった。

「キセキだろうが……俺は勝つ」

---


 和成君が明確にキセキの世代のことを口にしてから、しばらくたった。たぶん、今日因縁の試合があったんだろう。
 当時のことを思い出しているうちに落ち着いたらしい和成君を風呂場に突っ込んで、簡単なご飯を用意する。
 そういえば、引っ越し前に和成君が家の前で待っていた時に、よく似ている。あのときは、身体の冷えた和成君にだいぶ焦ったっけ。

 部屋中にチキンスープの香りが漂うようになったころ、和成君が風呂場から出てきた。
 うちに乾燥機付き洗濯機なんて無いので、手持ちの一番大きなTシャツとハーフパンツを着せた。アメリカで餞別として大我たちからもらったものだ。これ着てバスケしようぜ、と言われて。もらった時はどうしようかと思ったけど、これがなかったら和成君に着せるものがなかったからありがたい。

「千恵、ちゃん……」
「ちゃんと髪の毛も乾かして。それまでにご飯もできるから」
「……うん」

 和成君を洗面台に追いやる。ハンガーにかけておいた彼のジャージやらタオルやらを風呂場にかけて、浴室乾燥をつけた。彼の帰宅までに間に合うかは微妙だけど、最悪乾かなければ後日届ければいいわけだし。
 脱衣所の隅に脱ぎ散らかされた和成君の下着らしきものは、視界に入れないようにした。たぶん、私が洗わない方がお互いの為だ。

 ドライヤーの音がとまったのを合図に、用意しておいたおかずをローテーブルに並べていく。アメリカにいる間、散々低糖質高たんぱく食をアレックスに指導されたから、レシピには大して迷わなかった。
 程なくしてシャンプーの香りと共に姿を現した和成君は、怒られることを恐れている子供のような表情をしていた。大学で使っているジャージを彼の肩にのせて、腰を下ろすように背を押した。

「ほら、和成君。座って? 一緒に食べよう」
「……いーの?」
「おばさんにはうちでご飯食べてくって電話してあるから大丈夫」
「そう、じゃなくて」
「いいの、食べよ? 冷めちゃう。それとも私の料理じゃいや?」
「……食う」
「よろしい」


 一言もしゃべらなかったけれど、出されたものを残さずに和成君はぺろりと平らげてくれた。皿洗いを済ませてホットココアを片手に戻ってみれば、彼はベッドの足元で背を丸くしていた。
 黙ってコップを差し出せば、スンと匂いを嗅いでココアだとわかったのか、おずおずと手を出して受け取る。その姿が、どうしても小学生だったころの和成君と被ってしまう。春先に久しぶりに会った時のような、不敵に笑う姿なんてない、年相応な姿。
 黙って手元を見る和成君の隣に腰を下ろして、ココアに口をつけた。

「千恵ちゃんもココアなんだ……?」
「うん、今日はカカオ成分とりたくて」
「前はブラックコーヒー飲んでたくせに」
「……そう、だね。よく覚えてるね」
「たりめーだっつーの……ってこれ、めっちゃ苦えじゃん!」
「砂糖入れてないから」

 和成君が飲んでいるのも、私が飲んでいるのも、無糖のココア。苦いけど、落ち着く味。
 じとりとした目を向けてくる和成君は、だけど全く覇気がない。それでもココアを半分ほど飲んで、彼はポツリとこぼした。

「千恵ちゃんはさ、……俺のこと、好き?」
「好きだよ? 今みたいに一緒にご飯食べてくれる和成君も、何かを頑張ってる和成君も、大好き」
「……なあ。じゃあ、バスケやらなくなったら……俺の事嫌いになる?」
「え……?」

 和成君が、まさか、あの高尾和成が、バスケをしない選択があるなんて。思いもしなかった問いに、なんて答えればいいのかわからなかった。
 和成君は私を見ず、手元のココアに視線を向けたままだ。

 ……きっと私の答えなんか関係なく、きっと和成君はまたバスケをするだろうけれど。和成君に無理はさせたくない。だけど、バスケ選手としての彼の未来が広がっていることも知っている。
 それとも……私のせいで、本来のシナリオからズレが生じているの……?
 ふと浮かんだ選択肢を慌てて頭の隅に追いやる。私一人に、そんな影響力があるわけない。

 だけど。
 でも、もし、仮にそうなら?
 噛み癖も、バスケをやめると言う発言も、私のせいだとしたら。
 このまま知らないふりをして、和成君が本来進むべき高尾和成の道を歩んでいかなかったら…?

「バスケは関係なく、和成君のこと、大好きだよ。ずっと変わらないから。いままでも、これからも」

 色々なことが頭を過ったけれど、考えるより先に手を伸ばしていた。
 ぎゅっと横からすり寄るように寄せられた頭に腕を回す。これだけ大きくなっても、やっぱり和成君は私にとって、幼馴染みで大事な大事な和成君だから。脳裏に過るのは、最初にバスケをしてみせてくれたときのこと。

「初めて和成君がバスケして見せてくれた時のこと、覚えてる。すっごい楽しそうだった。だから、もしまだバスケが好きで、今壁にぶつかっているのなら……和成君は乗り越えられるんじゃないかな」
「やめても好きって言うところじゃねえの」
「……だけど和成君、バスケ続けたいんでしょ?」

 長い沈黙のあと、ゆっくりと和成君が頷いたのを感じた。そろりそろりと背中に腕が回されて、気づけば和成君の腕の中。
 ゆっくりと吐かれた息が耳にかかってくすぐったい。

「もう、負けねえ」


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