千恵ちゃんの一番傍にいたの、だれだと思ってんの
千恵ちゃんがいなくなると聞いて、むしゃくしゃしてどうしようもなかった。遠くへ行ってしまう前にちゃんと話したかったし、少しでも一緒に過ごしたかったし、何より俺の事を好きだと言ってほしかった。
そう、告白の返事すらきちんともらえていないし、彼氏を作らないでほしいということも、結局言えていない。
なんとかとりつけた約束だけが頼りだけど、それだってお願いみたいなもので、あってないようなもの。どうしたって、やっぱり顔を見たら許さないと言いそうになるし、嫌いと言って注意をひきたくなる。
そんなひどい言葉しか千恵ちゃんを前にすると出てこなくて、それが嫌で嫌でしょうがなくて、そんな自分も嫌で、そんな俺にそれでも優しく笑う千恵ちゃんも嫌で、そうやっているうちに手遅れになったことに気付いたのは、土曜日の夜、友達とくたくたになるまで遊んだ後だった。
何も考えたくなくて、思い切り遊んだ後の事。
「あんた、なんで今日駅に来なかったの」
「なんだよ、悪いかよ」
「……千恵ちゃんの見送りの日だったでしょ」
母さんの言葉にさっと血の気が引く。慌てて入ったばかりの玄関を再び出て数軒先の千恵ちゃんの家に向かう。
インターホンを押しても静かで家は暗かった。窓にかかっていたカーテンは無く、がらんとした屋内が透けて見える。
認めたくなくて先送りにしていた千恵ちゃんとの別れは、それはもうあっけなくやってきて、それを俺が知ることなく過ぎていった。
後悔したって、千恵ちゃんはもういない。
--- 千恵ちゃんが中学を卒業してから、もうすぐ3年だ。やっと俺も中学2年生になった。バスケ部でもスタメンになって、思い描いていたのとは違うけど、中学バスケ界隈でそこそこ名前の挙がる選手になってるんじゃねーかな。最も、帝光を除いたら、だけど。
中学に上がって思うのは、中学生は思ったよりもぜんぜん子供だということだ。小学生の時は大人のように見えていたのに、実際中身はまだまだガキだ。
最後に会ったときの千恵ちゃんの年とほぼ同じ年になって、親の海外赴任についていく選択しかなかった千恵ちゃんの自由の無さが、ようやく分かった。
よく遊びに行っていた彼女の家も気づいたら更地になっていて、新しい家が立ち、知らない家族が出入りするようになった。そうやって、一つ一つ、千恵ちゃんがいた痕跡がなくなっていく。
アメリカの高校に行った千恵ちゃんからは、たまに手紙が届く。国際電話は高いからできねーけど、実際今受話器を渡されたって、何を話したらいいのかわからない。
千恵ちゃんに伝えたいことは山のようにある。だけど、気まずさとやり場のない感情とで、素直に会いたいと言えるかわからない。当然のように、手紙の返事だって書けなかった。
対して本も読まないくせに、後生大事に捨てないでいる栞を目の前にかざしてみる。初めて千恵ちゃんと公園で会った時に、彼女の肩についていた桜の花びらをラミネートして栞にしたもの。自分の事ながら女々しくて呆れてしまう。
そういえば昨日、千恵ちゃんと似た背格好の女の人が試合見てたよなあ。
どうも記憶のなかの千恵ちゃんと似た人を見るとついつい目で追ってしまう。当の本人はアメリカにいるはずだし、違うにきまってっけど。
それに……昨日の試合だって、ポイントガードとしての仕事はちゃんとできていたと思うけど、千恵ちゃんには見られたくない。
あーーもう俺、かっこワリィ。
そんな矢先、電話が鳴った。どうにも集中できなくて自主練を早く切り上げて家でだれている俺以外、だれも家に居ない金曜の夜。
栞を片手に持ったまま、早く切れろと願いながらゆっくりとソファから体を起こして電話に向かって歩く。
一向に切れる様子が無い電話が早くとれとうるさく鳴っていて、仕方なしに受話器に手を伸ばした。宣伝だったら面倒だよなあ。
「……もしもし」
『あの、高尾さんのお宅ですか? 私、涼宮千恵です。昔近所に住んでいた者で、』
「……え、」
『あれ……? もしかして違いますか? すみません、切りま――』
「千恵、ちゃん?」
息を飲む音が受話器越しに聞こえた。だれもしゃべらない沈黙の中で、吐息だけが回線にのって耳に伝わる。左手に挟んでいた栞がつるりと床に落ちて滑っていったことさえ、気にできなかった。
咄嗟に電話番号表示を見るけど、国内の番号だ。今、千恵ちゃんもしかして日本にいるわけ?
「今どこにいんの」
『え……? えっと、もしかして、……和成君?』
「千恵ちゃん、今どこ。場所、言って」
『あ、え、新宿だけど。でもこの後すぐ移動するから、ええと、』
困惑しているような千恵ちゃんの声を聞いて、少しづつ俺も落ち着きを取り戻す。何を話したいかなんてわからない。だけど、そんなの会ってから考えればいい。
もう会えないまま後悔するのはたくさんだ。
「どこに行ったら会える? 会いに行くから予定と宿、教えてよ」
『……部活で、忙しいでしょ? 和成君の声聞けただけで十分だから』
「千恵ちゃんがそれで良くても、俺は嫌。うちに来れば? 母さんたちも会いたがってる」
受話器の向こう側が静かになった。千恵ちゃんが迷っているのか、それともどう断ろうか考えを巡らせているのか。もしそうならば押し切ってしまえばいいじゃないかとひらめいた。
千恵ちゃんと離れていた2年とちょっと、次に会った時に子供扱いされないように、背伸びしなくても彼女の横に並べるように、年上に絡みに行ってずるい大人の知恵をたくさん得ただろ。
「じゃあ俺が今からそっちにいくのと、千恵ちゃんが家に来んの、千恵ちゃんが良い方選んで」
『ええと……ええ? それは、でも、』
「家に来るなら母さんに夕飯の連絡するけど、千恵ちゃん久々の日本で何か食べたいものある? 手巻き寿司? オムライス?」
千恵ちゃんの好物は、かなり家庭的だ。たぶん、実家で食べられなかったから。他にも肉じゃがとか、おでんとか。そーいやカレーも好きだったよなあ。
いくつか料理の候補を上げていけば、受話器の向こうで息を吐く音を拾って、わずかな緊張が身体の中を走る。これでもし断られたら、へこんでしばらく立ち直れねーかも。
『じゃあ週末、土曜日か日曜日、おばさんの都合がいい時に……お邪魔したい、な』
「千恵ちゃんの予定は?」
『いくつか買い物したいだけで、固定の用事は無いから。早めに行って手伝いもするって伝えてくれる?』
「母さんも喜ぶぜ、絶対。ちょっと待って、予定確認すっから」
『うん、ありがとう』
中学生も高校生も、思っていたより大人じゃない。だから千恵ちゃんだって、こうして答えを誘導されているのに気付いていない。「相手を意のままに操る会話術」というタイトルを見た時にはあやしーと思ったけど、意外とどうして使えるじゃないか、あの本。
カレンダーで家族の予定を確認しながらほくそ笑む。もうかわいい和成君は居ねーんだぜ、千恵ちゃん。そんなこと、教えてやんねえけど。
「土曜の夜なら母さんも、皆いるから。あ、手土産は気にしなくて良いけどどーせ千恵ちゃん気にするだろうから、どっかでチーズケーキ買ってきて。焼いてあるやつ。母さんが最近はまってんの」
『……和成君は何でもお見通しだね。ちょっとびっくりしちゃった』
――千恵ちゃんの一番傍にいたの、だれだと思ってんの
返しそうになった言葉をなんとか飲み込んで、「まあ幼馴染だから?」と返す。電話でいうことじゃない。あれは、直接言うべきことだ。
「宿どこら辺にとってんの? 今からうちに来ても母さん喜ぶと思うけど」
『東京駅から地下鉄で東に3ついったところだけど……ちょっとそれは申し訳ないから』
「ふーん……なんだっけ、東京駅の駅ビルに入ってるラ・フルーなんとかって店。もしケーキ買う場所に迷ったらそこがおススメ。母さんがこの間テレビで見てから気にしてる」
『えっ! ありがとう、和成君……本当、すごいね』
「……で、千恵ちゃんは土曜日空いてんだよな? 10時に東京駅西側のマジバの前」
『え? 空いてるけど……ええ? 部活は?』
「定期点検で休みだから気にすんな。……場所!わかんないなら迎えに行くけど。それにさ、さっきのケーキ屋の場所、千恵ちゃんわかる?」
『わかんない、かな』
「じゃ、きーまり! 可愛くしてきてね、千恵ちゃん。俺、デート楽しみにしてっから」
受話器の向こう側で何かしら千恵ちゃんが言っていた気がするが、返事を待たずに回線を切った。俺が一人で待ってるかもって思ったら千恵ちゃん、絶対約束の場所に来るはずだ。
「クッソ緊張した……」
はああ。深いため息を一つ。いつの間にか握っていた左手は手汗でびっしょり濡れているし、心臓もバクバクうるさい。だけど、やってやった。約束を取り付けた。これで千恵ちゃんに、会える。