別に、嫌いになったことないし。好き、だけど
春は千恵ちゃんに出会った季節だけど、俺と千恵ちゃんの距離を離す季節でもあるから、好きか嫌いかと言われると嫌いだ。
「千恵ちゃん……」
中学の制服に最後に袖を通す日。卒業式終わりに、うちに挨拶に来た千恵ちゃんはいつもと違って制服を着ている。母さんが千恵ちゃんの制服姿をちゃんと見たいと言ったから、千恵ちゃんが着てきたもの。俺が1年後に通うのと、たぶん同じ中学。
同じ制服を着て、一緒に登校したかったなぁ……
叶うわけもない夢を見る。4歳という年齢差は小さいようで、決して学校が被らないぐらいには離れている。あと1カ月もしたら千恵ちゃんはまた新しい制服を着て、俺が通えない高校に行く。俺をおいて、どんどん大人になっていく。
うちで千恵ちゃんの卒業祝いをした。母さんたちは、千恵ちゃんの中学の思い出でずいぶんと盛り上がっていたけれど、俺はそんなことを聞く気にはなれなかった。
聞くたびに、千恵ちゃんとの間にある壁が分厚くなるような気がして、ずっと黙っていたし、食べ終わった後はすぐにテレビの前に移動した。家族からのもの言いたげな視線と、千恵ちゃんからの困惑したような視線を受けたって、何を話せばいいのか分からなかった。
だって、俺をおいていくじゃないか。
デザートを食べて一息ついたころ、そろそろ失礼しますと言う千恵ちゃんを家まで送れと母さんに家から放り出された。だけど千恵ちゃんの斜め後ろを歩くだけで、結局何もしゃべれていない。
今日だけじゃない。あの日、千恵ちゃんの家の玄関前で待って、風邪をひいたあの日から、ろくに喋れていない。
正確には俺が一方的の千恵ちゃんを突き放してるだけだけど。
またあの日みたいに遮られたらという怖さもあるし、あの日聞いた千恵ちゃんの甘い声に変に緊張してしまっているのもある。そっけない態度を取っちゃったことは悪いと思っているけれど、どうしても正面切って千恵ちゃんと話そうとすると、素直になれない。
家数軒分しか離れていない我が家と千恵ちゃんの家との距離なんてあっという間で、自宅のドアのカギを開けた千恵ちゃんが困ったように俺を見ていた。
「和成君、もうちょっと、お話していく?」
「……俺は別に」
「私は和成君の話が聞きたいな」
微妙にかみ合っているような、いないような会話を経て、甘やかすような千恵ちゃんの声に誘われるまま、俺は数カ月ぶりに涼宮家のソファに座っていた。何を話そうか、どうしようかとせわしなく頭を動かしていると、マグカップを2つ持った千恵ちゃんが戻ってきた。
俺の前に置かれたのはホットココアだ。千恵ちゃんのコップは、違う色をしている。父さんが朝飲んでいるのと同じ色と香りをしている。
「……それ、なに」
「え? ああ、これ? コーヒー。あんまり夜飲むのは良くないんだけどね」
いたずらっぽく笑う千恵ちゃんは、やっぱり大人だ。飲み物一つとっても、こんなに違う。
「あのね、和成君。覚えてるかな……最後にここで話したとき、私慌ててて……和成君の話、遮っちゃったでしょ」
なんの話かなんて、すぐに分かった。あの日千恵ちゃんに会いに行った本題のことだ。遮ったことなんて忘れていると思っていたのに。今になって、なんでわざわざ聞くんだろう。まるで何かのフラグのようだ。
「聞かせてくれると、嬉しいな」
マグカップをローテーブルに置いて、千恵ちゃんはじっと俺を見つめた。
この目に、だれを写すんだろう。だれのために、泣くんだろう。
彼氏ができてしまったら、やっぱりもう、俺の話をこうやって聞いてくれることも、なくなるのかな。
そんなの嫌だ。誰にも、渡したくない。
「……好き」
言おうと思っていたことと全く違う言葉出て、自分でもびっくりする。千恵ちゃんも目を瞬かせて、俺の言葉を咀嚼しているようだった。
「……本当?」
「嘘ついてもしょうがないだろ」
「私の事、嫌いじゃない……?」
「別に、嫌いになったことないし。好き、だけど」
「だって……私のこと、嫌いに……なったかと、思ってた……から、」
勢いで出た言葉と違って、意識して口にする好きという言葉はめちゃくちゃ恥ずかしい。
遠慮がちに伸ばされた腕が背中にまわって、きつく抱きしめられた。かすかにふるえる薄い肩と、鼻にかかったような吐息。千恵ちゃんは泣いているらしい。俺が好きだっていったら抱きしめてくれるなら、それで千恵ちゃんが俺に弱みを見せてくれるなら、照れ臭い言葉だけど、何度だって千恵ちゃんに好きって言いたい。
俺の肩に顔をうずめてひとしきり涙を流した千恵ちゃんは顔を洗ってくると言っていなくなった。空になった腕の中が寂しくて、ぼーとしながら涼宮家のリビングを見渡して、はたと気が付く。
異様に、物が少ない。元から生活感を感じにくい家ではあったけど、俺が摘んだ花をいつもかざってくれていた花瓶も、唯一の家族写真だと見せてくれた写真たても無い。言い表せない不安に足の先から冷たくなる。
慌ててリビングから飛び出して洗面所に向かうも、そこに千恵ちゃんの姿は無くて。かすかな音を拾って千恵ちゃんの部屋のドアを開ければ、ブランケットを引っ張り出している千恵ちゃんが振り返った。
「和成君? 待たせてごめんね。寒いと思ってひざ掛けを――」
「なんだよこれ!?」
「かずなり、くん?」
千恵ちゃんの部屋の中には段ボールの山ができていて、前に机の上に飾ってあった俺との写真も、シロツメクサのドライフラワーも、見当たらない。俺と千恵ちゃんとをつなぐものが、全部消えたみたいだった。
「引っ越し……? どこへ?! なんで、言ってくれなかったんだよ……! ずっと千恵ちゃんと一緒だと……俺は! 千恵ちゃん! なんで!」
あれだけどうやって千恵ちゃんとしゃべればいいか悩んでいたのに、嘘のように言葉がするすると出る。千恵ちゃんを責める言葉ばかりが出て、それでも千恵ちゃんは困ったように柔らかく笑うだけだった。
「お父さんがね、アメリカに転勤になって。単身じゃなくて、家族で来いって。だから、だから……私も、アメリカに行くの」
「俺より……家にいない家族の方が大事だってことかよ!?」
「……うん」
嘘だ。千恵ちゃんは嘘をついている。少し目線をそらして、首筋に手をあてた。都合が悪い時の、千恵ちゃんの癖。気付かないとでも思ってたのかよ? どれが嘘なんだ。アメリカに行くこと? 単身じゃないこと? 理由が他にあること? ねえ、どれ?
嘘をつかれたことも、引っ越しを知らされなかったことも、ずっとうまく話せなかったことも、すべてがむしゃくしゃして、先ほどまでの冷えが嘘のように身体中が熱い。気まずそうな表情を浮かべたままの千恵ちゃんを力任せに押して、部屋の中に唯一変わらず残っていたベッドに手首ごと押さえつけた。
千恵ちゃんの右手首をきつく握っていて痛いはずなのに、千恵ちゃんは痛いとも言わなければ、顔をゆがめることも無かった。代わりによくわからない表情を浮かべている。諦めと喜びと幸せと悲しみが全部混ざった顔をして、俺を見ていた。
また、その目だ。俺を見ているようで違う人を見ているような。怒りよりも不安が勝って、千恵ちゃんの首に顔をうずめる。
「どこにも行くなよ。俺のそばにいて」
「ごめんね……和成君」
「……千恵ちゃん、ごめん。ひどいこと言ってごめん。だから、だから、」
「和成君のせいじゃないよ」
「なあ、居なくなんなよ。……俺、千恵ちゃんのこと好きだよ。嫌いになったことなんて無い……ずっと一緒に居たい。ここにいて。なあ、千恵ちゃん」
「ごめんね……」
「俺をひとりにしないで」
何を言っても千恵ちゃんから返ってくるのは謝罪の言葉だけ。俺だってわかってる。大人が決めたことを小学生が変えられないこと。だけど、千恵ちゃんならそれができると思っていたし、俺の事を選んでくれると思っていた。ひさびさに話せた千恵ちゃんとの結果が、まさか千恵ちゃんがいなくなることを知るなんて思わなかった。
どうしたら、ここに居てくれるんだ。
「居なくなったら、絶対に千恵ちゃんのこと許さない」
強い言葉を吐かないと、不安に飲み込まれてしまいそうだ。
だって千恵ちゃん、本当は俺がひどい態度をとったから、俺の事嫌いになって、だから俺をおいていくんだろ。
冷たい千恵ちゃんの手が背に回って、あやすように背中を優しくなでていく。いつもなら、いつもなら千恵ちゃんの手が触れたところから身体が熱くなるのに、今日は芯から冷えていくようだった。
子供扱いされているようで悔しい。つかんだままの千恵ちゃんの手首を握る指に力が入る。
「手、離して?」
「やだ。離したら千恵ちゃんどっか行っちゃうだろ」
「和成君に触れていたいだけ。……私だって、和成君がいないと不安になるんだよ? ねえ、お願い」
「本当……?」
「和成君に嘘をついたこと、ないでしょ?」
――でも、教えてくれないことだって多いくせに。
咄嗟に出そうになった言葉を飲み込んだ。これを言ったら、本当に千恵ちゃん何も言ってくれなくなりそうで。恐る恐る肘をついて身体を起こす。こっそり千恵ちゃんを伺い見れば、眉尻を下げて俺を見ていた。
「和成君」と甘ったるい声で促されて、仕方なく逃がさないように掴んでいた千恵ちゃんの手首を離す。千恵ちゃんの手首には俺の指に沿って白い痕がついていて、どうしてかそれが瞼に焼き付いた。
髪の毛を梳くように俺の頭を撫でていく千恵ちゃんの手。いつもなら嬉しいのに、今日はそれだって喜べない。
「本当に行っちゃうの?」
「うん……ごめんね」
「どうしても?」
「どうしても」
「じゃあ、待ってる」
「それ、は」
髪を梳く千恵ちゃんの手が不自然に止まった。頭から指が滑り落ちて、代わりに両手で顔を包まれる。しっかりと俺と目を合わせ、「ダメだよ」と千恵ちゃんが言うけど、俺にはその理由が分からなかった。
俺がどうしようと、それは千恵ちゃんには関係なくて、どうこう言うことはできないはずだ。だって実際に千恵ちゃんだって俺の願いは無視して海外に行くんだから。思ったことをその通りに伝えれば、困ったように細められた目と視線が絡む。
「和成君が賢くてお姉ちゃん困っちゃうなあ……」
「千恵ちゃんは俺の姉ちゃんじゃないだろ」
「……寂しいこと、言わないでよ」
「事実だろ」
「……うん、そうだね。ねえ、来年から、中学に通うでしょ? その後は高校。そうやって肩書……うーん、通う場所が変わるとね、関わる人も増えて、興味を持つものも変わっていくの。少しづつ世界が広がって行って、大切なものも、守りたいものも変わっていくの」
ほら、また。俺を見ているようで、誰か違うやつを見ている目だ。しっかりと合わせられた瞳の向こう側に、誰か知らないヤツの影がちらついている。千恵ちゃんは、きっとそいつに向かってしゃべりかけている。相手は俺じゃない。今まだ小学生の、俺じゃない。
こんなの、どうしろっていうんだろう。せめて千恵ちゃんの中に居る誰かが分かれば追い出せるのに。
このまま離れてしまったら、次の約束の無いまま離れてしまったら、きっともう二度と会えない。これは予感なんかじゃない。確信だ。
千恵ちゃんは俺に嘘はつかないけど、嘘をつかないといけないときは、はぐらかすから。
シロツメクサの指輪をはめた日。「俺のものになって」と言った俺に、千恵ちゃんは困ったように笑っていた。熱でうなされていたときには思い出せなかったあのときの返事が、今なら鮮明に思い出せる。どこか遠くを見るような目で、俺の目を見ながら言っていた。「ずっと昔から、私の心は『高尾和成』のもの」って。
「なあ、千恵ちゃん。約束、覚えてる?」
「えっと。どの約束かな……」
「シロツメクサの指輪を千恵ちゃんの指にはめた時の。俺が次に渡す指輪を受け取るってやつ」
「え? あー……ああ、うん。覚えてる。シロツメクサの冠を作ってくれたときのことだよね」
両手を顎に添えながらあちこちに視線をやった後、思い出したように再び俺に焦点を合わせた千恵ちゃんは「指輪の、」と呟いてはにかんだ。
目の前にある、今はまだなにもついていない千恵ちゃんの左手をさらって、爪を立てる。「和成君?」と不安そうな声で俺を呼ぶ千恵ちゃんを無視して指先に力を込めても、指には脂肪なんてほとんどなくて、たいして爪が食い込まない。
俺の下でベッドに髪の毛を散らしたまま見上げてくる千恵ちゃんが小さく「痛い」とこぼして、不安と痛みの混ざった顔をしている。怖いし、痛いし、嫌だよ。俺だって。
ゆっくりと千恵ちゃんの左手の薬指から手を離す。さっき千恵ちゃんの手首に付いた俺の指の痕ほど鮮明じゃないけど、たてた爪の分だけへこんだ皮膚はしばらくそのままらしい。こんな痕、つけたって、どうせすぐ消えるのは分かってっけど。
「ちゃんとこの指、空けたままで戻ってきてくんないと許さねーから。約束、守って。……指輪を、受け取りに来て」
「……そう、だね。約束、したからね」
「俺が大人になる前に戻ってきて」
「和成君が大人になるその前に、会いに来るね」
大人が何歳なのか知らない。固すぎる約束だと、破ってしまったら千恵ちゃんは戻ってこないだろうし、先過ぎたら俺の我慢が持たないから。
きっとこれで正しかったはずだ。
どう頑張っても戻ると口にしてくれそうにない千恵ちゃんだけど、約束は守ってくれるはずだから。
千恵ちゃんの上から退いて、しわくちゃになったベッドを降りる。
「いってらっしゃい、千恵ちゃん」
吐きたくもない言葉を出して、千恵ちゃんの家を後にした。