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約束、してほしいことがあんだけど
 俺が小3になった時に、千恵ちゃんは中学生になった。俺が小5になったら、彼女は高校に行く準備が必要になったらしい。
 母さんと父さんだって、いくつか年が離れているはずなのに、どうして俺と千恵ちゃんとの4歳の差は、こんなに大きいんだろう。最近の千恵ちゃんは前にも増して家に籠るようになっている。何かに悩んでいるはずなのに、聞いても困ったように笑うだけで教えてくれない。
 悩みを口にできないことが大人になることなら、千恵ちゃんにはずっと子供でいて欲しかったし、悩みを相談してもらえるのが大人なら、早く大人になりたい。

 俺も4年生から始まった部活の練習量が5年生になって増え、あまり前みたいに千恵ちゃんに会いにいけていない。今でも遊びに行くし、彼女もうちに来るけれど、前のように毎日会えなくなってしまったことが寂しくてしょうがない。
 千恵ちゃんが高校生になったら、もっと会えなくなっちゃうのかな。宿題をしていた手を止めてリビングで盛大にため息をつくと、同じテーブルで家計簿をつけていた母さんが顔を上げた。

「和成、あんたまさか千恵ちゃんのところでもため息ばっかりついているんじゃないでしょうね」
「そんなことしてねーよ……」
「ふーん……でも、来年からは今までみたいに千恵ちゃんの家に遊びに行っちゃだめよ」
「なんで」
「千恵ちゃんだってあんたが家で待っているんじゃ、彼氏とデートだってできないでしょ? 今までだって彼氏がいない方が不思議だったんだから」

 彼氏。 
 クラスの女子とか、妹の漫画とか、母さんの見てるドラマで知ってる。好きですって言って、大切な関係になる人。女の子の初めてとか、特別とかを全部独り占めできる人。彼氏ができたら、他の男と喋ったり、連絡したりしたらだめだってクラスの女子が言っていた。

 友達の家でそいつの兄ちゃんの漫画を見るたびに、千恵ちゃんを想像した。ヒロインの身体をなでる指がどアップになって、苦しそうに気持ち良さそうに主人公を呼ぶ姿に千恵ちゃんを重ねては、苦しくなった。それを他のヤツが本物を見るって? そんなの嫌だ。

 話したことのない別のクラスの女子から、この間告白された。彼氏になってほしい、付き合ってほしいと言われた。断ったら泣かれた上に、クラスに戻ったら散々からかわれて、正直しばらくそういうのはうんざりだ。だって俺には千恵ちゃんがいるし、千恵ちゃんが俺の一番だから。

 ただ、逆は考えていなかった。千恵ちゃんの一番も、俺じゃねーの?

 彼氏? そんな人が千恵ちゃんにできる? そうしたら、俺、千恵ちゃんに会えなくなる……?

「そんなの……絶対にダメだ」
「ちょっと、和成? 母さんこれから買い物に」

 やりかけの宿題をそのままにして、スニーカーをつっかけて玄関を飛び出る。数軒先にある千恵ちゃんの家について、インターホンを鳴らすも誰も応答しなかった。そういえば、今日は帰りが遅くなるから、明日会おうっていう話をしてたんだっけ。
 勝手に門を押し開けて、数歩行った先の玄関口に腰を下ろした。千恵ちゃんに会って、伝えないと。

 彼氏なんか、作らないでって。

---


「……和成君?!」

 千恵ちゃんの声がした気がする。寒いし、座りっぱなしで尻が痛い。声のする方に顔を上げれば、街灯にぼんやりと顔を照らされた千恵ちゃんがいた。普段あまり見かけない制服姿だった。
 よかった、会えて。お帰りなさい。そう言葉にしようとしたのに、うまく口が動かせない。

「和成君!……つめた、い」

 手に千恵ちゃんの指先が触れた。おかしいな、普段は千恵ちゃんの手はひんやりと気持ちいいのに、今日はやけに暖かく感じる。やっぱり、12月に部屋着のまま来たのはちょっとまずかったかもしれない。
 ふわりと千恵ちゃんの香りに包まれる。まだぬくもりが残る、彼女のマフラーを巻かれたからだとすぐにわかった。これ、俺が去年母さんに相談して千恵ちゃんにクリスマスプレゼントで送ったやつだ。使ってくれているのか、嬉しいな。
 ガチャガチャと鍵を開く音がして、玄関に押し込まれた。痛いぐらい強く握られた手に引かれるまま、リビングのソファに腰を下ろす。

「今あったかいもの持ってくるから、とりあえずこれにくるまっていて」

 肩にかけられた気持ちのいいブランケットからも、千恵ちゃんの家特有の香りがした。俺の好きな、落ち着く香り。ここにきてやっと、指先がかじかんでいることに気が付いた。せわしなく動き回っていた彼女は、やがて厚手の毛布を持って戻ってきた。俺を毛布でぐるぐる巻きにすると足音を響かせながら台所に行き、マグカップと湯たんぽを手に俺の前にしゃがんだ。

「ゆたんぽ抱っこしてて。あとこれ、しょうがの葛湯。あったまるから」

 俺にマグカップを握らせるときに触れた千恵ちゃんの指先はやっぱり、冷えていた。そのまま彼女は電話を持ってリビングの外に行ってしまった。少しだけ、話し声が聞こえる。

「……さみーよ、千恵ちゃん」

 マグカップの熱がじんわりと指にうつる。確かに指先はもうかじかんでいない。けれど俺が欲しかったのは、もっとぬるい熱なのに。毛布でも湯たんぽでもマグカップでもなくて、千恵ちゃんに触れていたいのに。

---


 電話を終えたのか、受話器を持ったまま戻ってきた千恵ちゃんは静かに俺の前に立った。さっきまで足音を響かせながら家中を走り回っていたときとは大違いだ。

「千恵ちゃん、ここにいて」

 制服のスカートからのぞくタイツに包まれた足が寒そうで、見ている俺の方が震えてしまいそうだ。黒いタイツに包まれた彼女の足は、本当に震えているようだった。
 俺の足元に膝をついた千恵ちゃんに名前を呼ばれる。久方ぶりに聞く、泣いているような声。そんなまさかと思って彼女を伺い見れば、涙は無いのに、泣いているようだった。千恵ちゃんの手がそっと伸ばされて、俺の頬を撫でていく。顔の輪郭を確認されているようで、ずいぶん昔に、砂場で触れられた手を思い出す触り方だった。震えている指先で触れられるのはくすぐったい。だけど、あの時のように、まるで世界で一番大事なものに触れるような、触り方に、心が温かくなった。

「和成君、だいじょうぶ? 寒くない?」
「寒くない。千恵ちゃんの方が寒そう」
「いいの、私はいいの……ごめんね。あんな寒い中、待たせてごめんね。心臓がとまるかと思った……和成君が生きてて、本当に良かった……ごめんね」
「なあ、千恵ちゃん」

 そのままソファの足元に座り込んだ千恵ちゃんが、肩を揺らしている。泣いていないかもしれないけど、泣いているかもしれない。顔が見えないし、よくわからなかった。山のように巻かれた毛布を少しづつほどいて、ソファから身を乗り出す。背中に背負った毛布ごと、彼女を抱きしめた。簡単なことだった。こうしてしまえば、小学生も中学生も、背の高さも関係ない。なんでこんな簡単なことに、気付かなかったんだろう。
 首筋に髪の毛が当たってくすぐったい。シャツの肩口は、千恵ちゃんの涙でしっとりとした冷たさを感じさせる。それが逆に、これが夢じゃなくて現実であると俺に教えてくれた。

 繰り返し謝罪の言葉を口にする千恵ちゃんは、どうしたら泣き止んでくれるんだろう。「千恵ちゃん」と呼んでも、「和成君ごめんね」と返されるだけだ。やっぱり千恵ちゃんを笑顔にさせるには、俺がちゃんとしなきゃだめだ。これじゃあどっちが年上かわからないな、なんて思ってちょっと笑えてしまう。それでも、どうして千恵ちゃんがこんなに泣いているかなんてわからなかった。
 だけど俺は、千恵ちゃんのヒーローだって言われたから。笑顔にしたいんだ。
 すこしずつ呼吸が落ち着いてきた千恵ちゃんに声をかける。

「約束、してほしいことがあんだけど」
「なあに、かずなりくん」

 耳がしびれるような感覚。これが甘い声というのだろうか。友達の家で見たえっちな漫画をぼんやりと思い出した。こんな風に、ずっと呼ばれていたい。かすれた、上ずった声で俺を呼ぶ千恵ちゃんの声に心臓が煩くなる。

「千恵ちゃん。高校生になっても、」

 俺と千恵ちゃんだけだった空間に、間抜けなインターホンが鳴り響く。その途端どこにそんな力が残っていたのかと思わせるような勢いで千恵ちゃんが立ち上がって、急に腕の中が寒くなった。ここで逃しちゃいけない、そう思って手を伸ばすのに――

「千恵ちゃ、」
「ごめんね、和成君」

 手が、届かない。
 目元をぬぐうとすぐに千恵ちゃんは玄関に向かって行ってしまった。今まで、いつだって、千恵ちゃんは俺の話を聞いてくれていた。どこでどんな話をしていたって。なんでも聞いてくれて、褒めたり笑ったりしてくれた。
 遮られたのは、たぶん今回が初めて。指先はとっくに温まったはずなのに、どうしようもなく寒くて、冷たい。


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