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……魔法使い、なんだ
 和成がその少女を最初に見たのは、たぶん幼稚園に入る前の頃だった。たまに母の腕から見た外の世界で見かける少女。はっきりとは覚えていない。
 そんな彼女が、和成の中ではっきりとした形を持つようになったのは彼が年中の頃。和成の中できちんと認識された少女は、どこか、吹けば消えそうな儚さや脆さを持っていた。そんな表現を知らなかった和成は、吹かれたら綿毛のように飛んでいきそうなお姉ちゃん、と、思っていた。

 生まれたばかりの妹に母はいつも付きっきりで、公園で前のように砂の城を作って見せても、ブランコを勢いよくこいでみても、あまり和成のことを見てくれなくなった。

 中学に上がってから改めて振り返ってみれば、1歳になるかならないかの赤子から目を離すことがどれぐらい危ないことか、よくわかる。けれど当時まだまだ甘えたい盛りだった和成にはそんなことはわからなくて、なんとか母の注意を引こうと毎日躍起になっていた。

 それまでにしたことのある遊びでは母の目をこちらに向けられないことは、すでに気が付いていた。それならばと滑り台に上った。幼稚園で体格の良い他の園児が複数人でおしくらまんじゅうをするように、滑り台を後ろ向きに下りるという肝試しをしていた。
 これなら、きっと母もびっくりして、すごいと褒めてくれるんじゃないか。高鳴る期待を胸に、小さな足は、狭い段差からなる滑り台のステップを上っていく。

 滑り台の上からの景色は中々に気持ち良いものだった。他の子供よりも高くて、自分一人の城。そんな特別な場所だった。ぐるりと公園内を見渡して、やっぱり視線が妹に向いたままの母を見つけた途端、和成の晴れやかな気持ちは一気にしぼんでいく。
 せっかくすごいことをやっても、お母さんが見てくれていないんじゃあ、やる意味が無い、気付いてよ。

「おかあーさーん!」

 息子の声に視線を上げて、滑り台の上にその姿を確認した母は、笑顔と共に手を振った。その返答に気を良くした和成は、くるりと背を滑走路に向けた。それを見て、滑り降りるわけでは無いことに母は気付いた。階段を下りてこちらに来るのかもしれない、とちらりと思ったところで泣き出した娘に、再び視線を落とした。
 母の視線が外れたことに気付かないまま、そろりそろりと後ろ向きに滑り台を下り始めた和成は、けれども途中で足を滑らせてしまった。かっこわるくもこけてしまい、そのまま滑り台の先にある砂場までごろごろと転がり落ちる。

 あまりのことに声すらでない彼に声をかけてくれたのが、後に名前を知ることになる、千恵という少女だった。まるで世界で最も大切なものを扱うように、和成に触れた。それがひどく心地よく、驚きが少しづつ引いていく。それと同時に泣く余力も出てきて、和成は小さくしゃくりあげた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ。痛くないよ」
「っう……うぇえ」
「痛いのはぜーんぶ、お姉ちゃんがもらうからね。痛いの痛いの、とんでけー!」
「……うう……」
「ほら、痛いことする悪いやつはとんでっちゃったよ。もうだいじょうぶ。痛くないでしょ」

 砂場の中から和成を拾い上げた彼女は、彼を背負って水飲み場に連れていった。
 そこで千恵に水道の下に自分の膝を出されて初めて、和成は膝に怪我をしていたことに気付いた。赤い色と剥けた皮膚を目にして、途端にそれまで気にならなかった傷が一気に熱と痛みを持った。

「うぁああ……いたい! いたいよお……」
「お姉ちゃんの魔法が足りなかったかな。だいじょうぶ。すぐ痛くなくなるよ」
「ううっ……ほんとう……?」
「うん。だから、魔法の水につけようね。そしたら痛いの、全部お姉ちゃんが、もらっちゃうから。ね?」

 容赦なく水道水にさらされて、患部に水がしみる。さっきまでとは比べようのない痛みに泣きそうになるけれど、和成は千恵の言葉を思い出してぐっと歯を食いしばった。
 痛いのを貰ってくれるって言っていたお姉ちゃんは、きっと今の俺よりもっと痛いのを我慢しているはずなんだ。そう思って、和成は耐えた。実際に和成から見て、千恵は怪我をしていない筈なのに、泣いているように見えたのだ。

 そのあとも痛みを飛ばす魔法を唱える千恵に再び背負ってもらって、公園の反対側のベンチに座る母の元を目指す。女の子に守ってもらったっていうのはちょっと恥ずかしかったけれど、今彼女がいなくなったらまた耐えられない痛みに泣きそうになる気がしていた。だって、魔法を使える人が顔をゆがめるぐらい痛いんだ。和成からすれば、それを一人で耐えられるはずもなかった。
 こっそり千恵の背中越しに母を探そうとしたけれど、どうも背中が大きくて見えなかった。かわりに目の前の肩に桜の花弁がいくつかついていたことに気がついて、淡い桃色をそっと掴んだ。動いた手に気づいたのだろう、「どうしたの」という優しい問いかけに、和成は少し考えた。この花は、なんというものだったろうか。

「さくらのはなびら、ついてた」
「とってくれたの? ありがとう」

 花弁は和成の手の中にある。押し潰さないように気を付けながら、そっと、持っている。とったんだけど、とったわけじゃない。嘘をつきたくなくて、でも正直に告げるのも違う気がして、和成は千恵の背中に額を押し付けた。ぐりぐり。
 突然のことに驚いたように千恵の背中が揺れる。
 反応が返ってきたことが嬉しくて、和成は再び額を押し付ける。なんだろう、この感じ。ぐりぐり。温かい背中に、和成はお腹の底からぽかぽかと暖かくなるような感覚を覚えた。何と言っていいかわからないけれど、気持ち良い感覚だった。

 和成が額を押し付けている間立ち止まっていた千恵は、彼が満足したようにそっと頬を自分の背に押し付けたのを感じて、軽く前屈みになった。少し踏ん張って、背中からずり落ちかけていた和成を背負い直す。

「どうして……いたくなくなるまほう、つかえるの」

 和成は泣くのを我慢して、代わりにずっと気になっていたことを聞く。そうでもしなければ、千恵に担ぎ直されて、膝が動いた拍子に生まれたピリッとした痛みにまた泣いてしまいそうだった。
 千恵はどう答えるべきか考えを巡らせているようだった。ややあってから、「内緒だよ」とひそひそ声が和成の耳に届く。

「……普通じゃないの。……魔法使い、なんだ」
「ほんとう?! はじめてあった! すごい!」

 キャッキャッと嬉そうにはしゃぐ和成に、千恵の胸に罪悪感が広がった。けれども、夢を与えるような言い方をして、それをあえて否定するのは残酷かと口をつぐむ。背中越しに、和成のテンションが上がっていることに気づいたからだ。先ほど自分が口にしたセリフが怪我をした小さな子供につかう常套句であることは、黙っていよう、と。
 含みを持たせた言い方に、少し寂し気な声で告げられた答えに、和成の胸は高鳴っていた。特別な人間だから、本当は内緒なのにそれを特別に自分に教えてくれて、加えて魔法が使える。かっこいい、ヒーローみたいだ、と。だからその秘密は、自分の中でしまっておいて、誰にも言ってはいけないと思った。

「ないしょにする! やくそく!」
「……うん、約束」

 やがて和成の母のもとにたどり着くと、彼女は驚いたように和成と千恵を見た。一部始終を千恵から聞いた母は、幼い和成が見てもわかるくらい、千恵に何度もお礼を伝えていた。
 和成もお礼を言おうと思っていたのに、千恵に話に加わる隙を与えられなかった。千恵はなにか、和成がわからない難しい言葉で母と言葉を交わしていた。そして膝を曲げて和成を覗き込むと、人差し指を口元にたてて、少しだけ口角を上げた。笑顔とは程遠いものだったが、それが笑顔を意味していることを、和成はちゃんと理解していた。

「……だよ」
「うん!」

 あえて主語を使わない言い方がいよいよ魔法使いじみていて、和成は元気よく返事を返した。それに対してやっぱりへたくそな笑みを浮かべて、誉めるように和成の頭を撫でると、千恵は公園からいなくなった。
 首を傾げる母に、何でもないと強く言えば、あらそう? と、母が笑った。彼女はなんとなく、怪我のことだろうと察していたのだ。泣かなかった息子を誉めてから、彼女は公園の入り口、千恵が出ていった方に視線を向けた。


「自分も泣きそうなのに……しっかりした子ねえ」

 そのときの母の言葉だけは、意味を全て理解できずとも、なぜだか和成の耳に残っていた。



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