その医者、契約 小さな小屋の中で三人は一歩も動けず見つめ合う。 「どうします?坊ちゃん。」 シエルは未だ医者の腕の中だ。人相手ならひけを取らない悪魔でも、人外の吸血鬼に早さで勝てるかは解らない。 「命令・・・だ、僕を助けろ!!」 「イエス・マイロード」 執事の目の色が紅茶色から紅蓮に変わるのを見て、ぞっとした。 「流石は悪魔、と言った所かな?」 それではこちらも本気で行かせて頂きましょうか。自分が来ていた外出用の黒いコートをセバスチャンに向かって投げつける。 自分が相手の視界から消える、その一瞬の隙に少年を連れて外に逃げる。少年さえ連れていれば、セバスチャンが反撃できないと解っているから。 『命令・・・だ、僕を助けろ!!』 あの台詞は契約者と悪魔を縛るもの。適当にそこら辺に少年を放りだして逃げても良かったが、その後の身の保証もないのだし、適当なところまで引いてから空中で投げ出してやればいいだろう。 「僕を・・・どうするつもりだ!!」 「少年、口を閉じていないと舌を噛むよ。」 「何が・・・っ!!」 その瞬間、医者の足が屋根を蹴り、ふわりと体が宙に浮く。ばさりと開いた翼は久しぶりだったが、空へ逃げてしまえば契約により地に縛り付けられた悪魔なんて目じゃないのは経験から分かっている。 「さすがに噛みきってしまった舌の縫合は面倒だからね。」 シエルにその医者はにこりと笑いかける。 「ああ、どうするつもりかって? そりゃ逃げるに決まってるさ。」 だって悪魔、しかも結構見る限り階級も高そうなやつだし。捕まったら適わないことくらいは分かっている。それにはさっさと少年を離したほうが得策だということも。それをしないのは先ほどふと頭にちらついた厄介な伝承。 「でも・・・私はね、少し興味が有るんだ。」 シエルは腕の中で首を傾げたが、分からなくても良い。これは排他された吸血鬼のなかでのちょっとした噂話だったから。 「・・・悪魔の血を一度飲んでみたいんだよ。だから、少年はそれの囮エサって訳さ。」 「貴様・・・!!」 「少年が、あの執事君に交渉してくれるのなら放してあげても良いけどね。」 「・・・・・・っ!!」 『坊ちゃん!!』 屋根を飛び越えながら、追いついてきたセバスチャンが、ずいぶんと下の方で呼びかけているのが聞こえる。 「少年の“お願い”なら、執事君は聞いてくれると思うんだけどね。」 「・・・・解った。約束しよう。だから、早く僕を放せ!!」 「取引は成立だね。」 医者は小脇に抱えていたシエルを下にいるセバスに向けて落とす。 シエルからぱっと放される腕。 「な・・・お前!!」 「少年は、(早く放せ)と言っただろう?」 「・・・っ、」 「どうせすぐに有能な執事くんが抱き止めてくれるよ。」 思った通り、すぐにシエルは下にいたセバスチャンにより無事着地したようだ。もうお互い戦う必要性も感じないのだが、むこうは何故かとてもやる気であるらしい。 「セバスチャン、奴を捕まえろ!!」 「御意、ご主人様イエス・マイロード」 どこからか取り出した銀食器シルバーを空中にいる自分に目掛けて投げつけてくる。向こうは少年という人質を奪い返してようやく本領発揮と言ったところだろうか。セバスチャンの投げた銀食器シルバーを空中でかわし、掴む。スピードだけならこちらのほうが早いのは確認済みだ。 「今度は、こちらの番。そうでないと面白くないよね。」 セバスチャンに向かって、先ほどの銀食器シルバーを投げる。ダーツには自信があったのだが、なかなか上手いこと当たらない。 「なんで素直に当たってくれないかなぁ・・・」 気づけば全ての銀食器シルバーを投げ終わってしまっていた。その一瞬、悪魔だからこその跳躍力で空中にいるシルヴィオの懐まで潜り込んで来た。不意に蹴り出した足を左腕で固定される。そして右腕が伸ばされたのは、自分を支えている翼。 (こいつ、翼を折る気だ・・・!!) 「飛べない蝙蝠になら、勝てるかもしれませんね。」 「そんなことしなくても十分強いよ、執事君は。降参だ、だからその手を放してくれないかな。」 先ほどから恐怖と嫌悪感で冷や汗が止まらない。どうにか墜落を避けるために意識だけは保っているが、色々と自分は限界である。 「片翼でも良いでしょう? 坊ちゃんだって良いって言いますよ。」 「解った、離してくれたら協力でもなんでも少ししてあげるから!」 「・・・解りました。それじゃあゆっくり降りていただけますか?」 執事くんが腕を緩めた隙に、けり落としてやろうと思ったのだが上手くいかず、そのままどうしてか抱きつかれた格好のまま地面へ降りることになった。ああ、辛い。 その医者、契約 back |