忘れて 忘れないで 『俺のことは忘れてくれ。』 その一言がどうしても言えない相手が居る。彼女はそんな自分の葛藤なんて全然気づかない振りをして笑う。いつもの穏やかな時間。 「ねぇ、くま。 今度は何処に行く?」 荒廃した王国? 民族戦争の前線? 楽しそうに彼女は笑う。 「なぁ、ナマエ」 「なあに?」 軽いステップを踏むように自分に向かって歩く彼女。背の高い自分を見上げる彼女はどこか幼げで、とても愛おしい。そんな彼女に、どうしても言い出せない言葉がある。本当は忘れて欲しくなんて無いんだ。出来ることなら彼女の中に俺が消えないようにずっと刻みつけてしまいたい。 「愛している。」 「わたしも愛してるわ。」 何をいきなり言い出すのかと、くすくす笑う彼女。決意なんてずっと前からついていたのに、それを彼女は鈍らせる。全てを投げ出して逃げ出してしまいたいほどに。言えるはずがない。これほど共に過ごした相手に。あれほど愛しあった相手に。「俺以外の、誰かを愛せ」 なんて、言えるはずがない。 複雑な顔をしていたのだろう自分に彼女は不安そうに手を伸ばす。 「どう、したの?」 どこか痛い?なんて見当違いの言葉。強いて言うのならば、君を想う心が痛い。 「いや、何も。」 そしてまた口を噤むのだ。伸ばされた手を取り、身体を抱きあげる。ばさりと愛読書が床に落ちる音がして、古い聖書から数枚のページが零れた。 ひたすらに禁欲的な聖書の一文が目に入ったが、今は俺を止められない。 「ふふ、まだ日は高いわよ?」 「俺には時間なんて関係無い。」 残された時間は思っている以上に早く進むのだから。彼女の小さな頬に唇を寄せると擽ったそうに彼女は身を捩る。 「仕方ないわね、なにせ貴方は我が儘な"暴君"だもの。」 我が儘で全て君が受け入れてくれるのならば、この酷い男も許されるのだろうか。最後に君を残して逝く事すら内緒にする、卑怯な男を。 「そのかわり優しくしてね?」 「善処する。」 「出来た事なんてないくせに。」 そういうと彼女は少し冗談交じりに頬を膨らませた。そんな彼女がどうしようもなく、俺は好きなのだと再確認させられる。毎日、毎日、どうしようもなく離れたくないと思う。 「好きだ、どうしようもなく。」 「暴君じゃなくて甘えん坊に改名したら?」 ぎゅっと抱きしめた身体はやはり己と比べものにならぬ程小さくて。壊してしまいそうだと腕を緩めると彼女と目が合う。 「そのくらいは平気よ? 何度も言ったじゃない。」 「そんな事を言われると、"優しく"出来ないぞ。」 「初めから、優しくする気なんか無い癖に。」 「"暴君"だからな。」 「・・・馬鹿。」 「愛してる。」 もっと俺が本能に生きられる本当の暴君だったなら。理性なんて放りだして全てを捨てて走る程の馬鹿だったなら。 そうしたら君を泣かせずに済むのだろうか。許されなくても良い、こんな酷い男のことなど、忘れてくれても構わない。ただ、こんな酷い男のために泣かないで欲しい。俺が願うのはただそれだけだ。 卑怯な俺は、今日も幸せを租借しながら生きている。 忘れて 忘れないで どちらも 口にできないまま back ・ top |