図書委員会古橋



毎週木曜日、古橋は委員会の仕事で図書室のカウンターに座っていた。
花宮が主将になった際に、木曜日は練習を休まざるを得ないと断ったところ、存外快く木曜日を休みにしようと約束してくれた。
しかし、木曜日の代わりに毎週日曜日を練習日に定め(花宮曰く、模試があっても午後からは空く、のだそうだ)、古橋が部員の非難を一身に受けたことを思い出す。
日曜日に練習など、花宮本人も面倒だろうに、自分の身を削っても他人の嫌がる顔が見たいという徹底した“人の不幸はミツの味”精神に、古橋は怒りや恐れを覚えるよりもずっと、感服せずにいられないのだった。

そういうわけで、木曜日の古橋は気兼ねなくそこにいた。
図書委員こそ務めているものの、読書にはさして関心がないため、カウンターの狭い机で教科書を広げる。
カリカリとシャーペンの走る音だけが広い空間に響く中、しかし古橋は耳をそばだてていた。
すると間もなくして、お目当てだった控えめな足音が、次第に近づいてくるのが聞こえた。
開閉の際に戸のガラスが揺れてうるさいことをよく知っている彼女は、足音同様控えめな動作で入室してきた。
入室者の管理という名目の元、さっと顔を上げた古橋は、彼女と目が合っていることに気がつき、気のない風を装ってまた教科書に目を落とした。
#みょうじ#なまえは、一つ下の学年の女生徒だった。
図書館では毎週、校内ではごくまれに見かける。
いつもカウンターから見える窓際の席に座って、閉館時間まで勉強をして帰っていくのだ。
しかし試験前は混み合うため、そういう時は上級生が机に向かっているのを確認してそっと去っていく。
カウンターの奥の委員会専有の部屋は常に空いているため、よほど「入るか」と声をかけようと思うのだが、彼女にだけ親切にしてやる謂れもないだろうと、どこからともなく現れる冷静な声が古橋の頭を冷やす。
名前だって、#みょうじ#なまえが読書感想文のための課題図書を借りていくことがなければ知り得なかったような、そんな仲だった。

今日も彼女は、いつもの席についてがさごそと鞄を広げる。
古橋は、彼女の登場以来止まってしまったシャーペンを眺めながら、さっきまで自分はどんな解法を考えていたのだっけと、薄ぼんやり考えた。
来ることがわかっているので、来るまで落ち着かないが、来たら来たで、古橋の集中力を乱す。
当の本人はなんてことない風にプリントを広げているのだから憎たらしい、と古橋はまた顔を上げた。
気も漫ろな古橋を残して、刻々と時間が過ぎていく。
このままではいけない、コーヒーでも飲んでこようと古橋が立ち上がったちょうどその時、#みょうじ#なまえもパイプ椅子の金属質な音を立てて腰を上げた。
#みょうじ#なまえは驚いた様子で古橋を見たが、そのままそっと席を立って廊下へと消えていった。
古橋はどうしてそうしたのか自分でもわからないままに、椅子に座り直してシャーペンを握った。
あの気弱そうな後輩に気後れするなど、我ながら理解しがたい。

ややあって、#みょうじ#なまえは立て付けの悪いドアをそっと引いて図書室へと戻ってきた。
顔を上げないように努めて、古橋は意味のない公式をルーズリーフの端に書き出した。
こつんこつんと小さな足音が、また窓際へと向かっていく。
ところが足音は、窓際をただ通り過ぎただけで、再びカウンターの方へと近づいてきた。
特に関わりがあるわけでもない彼女の一挙手一投足に自分が関わっているような気がして、様々な邪推が古橋の脳裏をよぎる。
いやに挙動不審な#みょうじ#なまえへの猜疑心は、重苦しくて耐えられないほどであった。
その時、ガラリと乱暴に戸が開いた。
「古橋、いる?」
鬱陶しいと言いたいところだが、今日はこの緊張状態を破ってくれた原に感謝せずにはいられなかった。
#みょうじ#なまえは、そのままカウンターを通り過ぎて新聞のコーナーで足を止めた。
「図書館だぞ」
「めんごめんご。本返しに来たんだけどさあ、これ返却日三ヶ月前なんだよね」
「知ってる。俺が督促状を書いた」
「三ヶ月前の日付で判子押してくんない?」
「駄目だ」
いいじゃんようと原が唇を尖らせる。
ひったくるように本を受け取って、古橋は手早く返却処理を済ませた。
「先月にしといてやる」
「まじ?古橋ありが……たいのか?あんまり変わんなくね?」
帰れ、と古橋が原を手で払いのける動作をすると、原は不服そうながら、おどけた調子でガムを膨らませて出て行った。
少し調子を取り戻した古橋は、ふうっとため息をついて、再び教科書を睨みつけた。
今日の自分は少し気が漫ろなようだが、なんてことはない。
練習が休みだとか、予てより関心のあった映画が放映されるだとか、しばらく定期試験がないだとか、浮き足立ってしまった理由はいくらでも挙げられる。
なにも理解しがたい未知の理由で、心がざわついていたわけではないのだ。
「……あの」
しかし、古橋は次の瞬間、階段を一段踏み外しでもしたかのように、目を見開いて言葉を失った。
すっと自分の中に通っていた軸のようなものが、突然硬度を失って自信なさげに頭を垂れる錯覚がした。
#みょうじ#なまえはいつの間に選んだのか、本を一冊胸に抱えて、ひどく恐縮しながら古橋の前に立っていた。
「レンタ……本の貸し出しを……」
どぎまぎした様子で、カードとともに差し出された古典を、古橋は無言で受け取った。
ところが、日付の記入のために背表紙を開きかけた古橋のその手を、#みょうじ#なまえは慌てて止めた。
『雨月物語』に乱丁を認めたような気がして、注視しようとしていたその目を、不躾に重ねられた手に向ける。
次から次へとこの女子はなんなのだと、翻弄されて腹立たしいような気がしながら、それでも理解できずに古橋は#みょうじ#なまえを見上げた。
「やっぱり……いいです……ごめんなさい、本棚に戻します、返してください」
「それならやっておきます」
事務的に言うと、古橋は#みょうじ#なまえの手を払い除けた。
返却済みの本の山に、更に一冊重ねて、早鐘のような心臓を押さえつけて古橋は目を伏せた。
#みょうじ#なまえは、この上なく絶望した様子だった。





いつも通りの閉館時間に、いつもと異なってとぼとぼと図書室を去っていった#みょうじ#なまえの背中が妙に滑稽で、ごくごく小さな花が胸の中に咲いたような心地を覚えながら、古橋は閉館の準備に取り掛かった。
返却済みの本を重ねられるだけ重ねて腕に抱え、背表紙の書架ナンバーを確認しながら棚に戻していく。

最後に経由した古典文学の書棚で、古橋は#みょうじ#なまえの置いていった『雨月物語』を開いた。
おどろおどろしい表紙のお岩が、古橋を威嚇する。
――もう少し、他に選択肢があっただろう。
毒づきながらも、初めて見た#みょうじ#なまえの動揺する様を思い出して、古橋は口角を上げた。
裏表紙から現れた薄桃色の便箋を手に取り、自分宛であることを確認する。
そして、釈然としなかった想いを明らかにしてしまったそれを、壊れ物でも扱うかのようにそっと開いた。
明日、こっそりと手紙を回収しに来る#みょうじ#なまえを、古橋は待つべきだろう。
練習に遅刻することはやむを得ない、と、古橋は笑った。


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