ぴかぴかに磨かれた硝子窓は漸く目を覚ました太陽の煌めきを余すところなくなまえへと降り注がせ、長く伸びる廊下に陽光を送り届けていた。 なまえの脇をすり抜ける女の子は皆揃って規定より少しばかり短くしたスカートを翻し、春風をまとったような笑みをきらきらと浮かべている。年相応に無垢な彼女たちはなまえと何ら違わない有機物で構成されている筈なのに、自分とは異なりひどく可愛らしい。 兎のように愛らしく跳ねていく彼女たちを見送り、なまえは規則正しく膝上にはためく紺色に視線を落とした。 自分はお世辞にも可愛いとは言えないし、制服だってお洒落に着崩しても似合わない。 そう言い聞かせてこぼれそうになるため息を呑み込み、教室の戸を開けた。 1番に迎え入れてくれたのは水縹の髪をゆるく揺らした彼女。お香はなまえの親友とも呼べる友人だ。彼女の持つ穏やかな空気とやわらかな眼差しはいつまでも傍にいたくなるような魔力を秘めている。 「アラ、おはよう」 「おはよう、お香」 「おはようございます」 「!」 背後から唐突に降りかかった低い声音は耳をくすぐり、その心地よい響きを帯びたまま脳を痺れさせる。 思考も満足に巡らず、首をすくめた格好で振り返った先には墨に浸したかのような夜色の学生服に身を包んだ彼が佇んでいた。首元まできっちり留められた釦がこがね色にきらめく。 そろりと持ち上げた瞳と彼の黒曜のそれがからみ、心臓を掴まれたようにきゅっと胸が鳴った。 「お、おはよう鬼灯…」 「おはようございます。まぁずっと後ろにいたんですが」 「え!?話しかけてくれたら良かったのに」 「何やら考えごとをしていたようだったので」 確かに、朝から神妙な顔をして項垂れていては声などかけられなかったのかもしれない。 失敗したな、と気落ちしつつ、なまえはそおっと鬼灯を盗み見る。 頬をなぞるようにさらりと揺れる黒髪にすっと通った鼻筋、切れ長の瞳は近寄り難い印象を受けるけれど存外優しい光を灯すことが稀にあるのを知っている。 その瞳がたたえる黒曜石の色彩がなまえの胸をたまらなく締め付けるのを知ったのは、その流れるような黒髪を目で追うようになったのはいつのことだったか。 しかしその淡い恋心は叶うことなくなまえの内に秘められたまま散っていくのだろう。 成績優秀容姿端麗、少し奇特な行動をすることもあるけれどそれがまた人の目を惹きつける。歴とした人間である彼をこう表現するのは心苦しいが女にとっては優良物件、男には羨望の的だろう。 そんな彼が友人として懇意にしてくれていること自体なまえには夢まぼろしのような出来事なのに、その上隣にいたいだなんて願っていい筈がない。 再び重たいため息がこぼれそうに何とか留めて、自分の席にたどり着いた。 鞄を机に置いてひと心地つくと、お香はなまえの傍らに置かれた可愛らしい包みを目にしてまぶたをまたたかせた。その長いまつげが可愛らしく上下するのを見て、やわい微笑みが浮かぶ。 「アラなまえ、また誰かから贈り物?」 「ん?ああこれ?うん、わざわざ昇降口で待っててくれたみたいで…かわいい子だったよ」 「まァ、それ本人にも言ったりしてない?」 「え…だって本当にかわいい子だったし」 「……だからなまえは女の子にもてるのよ?」 「あー……嬉しいけど、ね」 お香の言うとおり、元から女にしては背丈があり、涼やかな見目や雰囲気も相俟ってかなまえは同姓に人気があるようで。自身と言葉を交わすだけで嬉しそうに声を弾ませる彼女たちを見るとこちらも心が華やぐし、好意を寄せられるのは有り難いけれど、囃される半面でもう少し女らしくありたいと思ってしまうのも事実だった。 それは鬼灯への恋情が芽吹くまでは欠けていた感情だ。もしなまえの颯然とした部分を好いてくれている彼女たちにこんな女々しい心を忍ばせていることを知られたら呆れられてしまうだろう。 それでも覆せないほろ苦い心は、もう随分前からなまえの胸に静かにたゆたっていた。 「もしかしてそれで何か悩んでいたんですか」 「っ!?ほ鬼灯!?」 「おや、また驚かせてしまって申し訳ありません」 「い、いやいいけど…」 なまえの肩の辺りからひょっこりと顔を出した鬼灯が耳元でささやいた低い声音。ささめくようなそれに身体を飛び上がらせながら振り返ると、彼は少しでも身じろげば触れてしまいそうなほどに近い距離にいた。 加えてなまえの心の機微を一片すら取りこぼすまいと、こちらをのぞき込むように背を丸めているものだから視界いっぱいに鬼灯の端正な顔が広がって心臓が甘く高鳴ってしまう。 目のやり場に困ってふらふらと視線をさまよわせながら、兎にも角にも問いに答えなくてはと口を開く。 「今朝のあれはこのプレゼントとは関係ないよ……なんかごめん、気を遣わせちゃってるみたいで」 「いえ…気を遣っているというより、心配なだけですが」 「へ?」 「……なまえさん」 「は、はい?」 何か大切なものを口にするように名を呼ばれ、とぎまぎと身を強ばらせながら鬼灯を見やると、優しく肩に回った彼の腕。なまえとは全く別種であるかのようなそのたくましい男のそれに引き寄せられ、真正面から向き合った鬼灯に見つめられる。 からまりあった瞳は縫いつけられたように逸らすことが出来ず、彼と見つめあう。濡れた虹彩の黒に秘められた彼の想いに気がつくことなく、なまえはただ鬼灯への苦みを伴った慕情に呑み込まれそうになるのを懸命に耐えていた。 緊張と身体を巡る熱になまえの限界が近づいたその時、2人の間に漂う甘さをはらんだもどかしい空気を裂くように鳴り響くチャイムの音。 鼓膜を揺さぶるそれにはっと我に返ったなまえは慌てて鬼灯の拘束から逃げるように後退した。 「せっ先生来るから席着きなよ」 「……そうですね、ではまた後で」 「う、うん」 肩から離れたぬくもりを寂しく思いつつも安堵し、波立つ胸中を抑えるように足のつま先へ視線を落としたなまえの頭をふわりと撫でた何か。 先ほどまでなまえの肩を引き寄せていた鬼灯の体温と重なるそれにまた心音が跳ね、赤を帯びているだろう顔すらあげられずに彼の気配が去るのを待った。 「ふふ、真っ赤ねェ」 「う…言わないでお香……」 気恥ずかしそうに目を伏せる今の彼女には、女生徒の間で評判の凛々しさなど影も形もない。朱色に染まるなまえの頬がお香の目にはひどく愛くるしく映った。 その肌に散った赤と同じくらい、なまえの中で蕾む恋心が少女のようにいたいけなのを彼女は知っている。自分には相応しくないからとその気持ちをひた隠し、閉じこめた心が人知れず彼女自身を苛んでいるのも察しがついていた。 そんな彼女の内情までは理解に至らないものの、なまえが何かを抱えていることを悟り心を砕いている者がいるのもまた、知っている。 ほんのひとかけら本心を見せあうことで際限ない幸福がふたりに訪れることもわかっているのだが、当人たちが進もうとしない限りどうにも仕様がない。 しかし先ほど鬼灯が垣間見せた、なまえを乞うような切なさの入り交じる虹彩を目にする限りでは、2人の想いが花開き実を結ぶ日も遠くないようだ。 長い間彼らの歯がゆい関係を見つめてきたお香は胸を撫で下ろしながら、熱をためた両頬に手のひらを押しつけるなまえに囁いた。 「もう少し素直になってもいいと思うわよォ?」 「何が?」 「自分の気持ちに素直になれば、きっと何か変わるわ」 「素直に……」 お香の言葉に小さく瞳を丸めたあと、なまえはわずかに俯いた。 自分の心に従えば、彼を困らせることになる。そして取り返しがつかないほど深く刻み付けられた亀裂によって友人としてさえ傍にいられなくなったことを1番悔いるのはなまえ自身なのだ。 そう思考を巡らせると、思いのままに行動することなど出来る訳もない。鬼灯への想いに心がふくらんで潰れそうになってしまうまで、彼にこのいとしさを伝えることはないだろう。 残された少ない猶予の中で、せめて恋い偲ぶことくらいは許してほしい、となまえはひそやかに鬼灯へ瞳を寄せたのだった。 |