うたかたの、 | ナノ




「ん……」


薄いまぶたを通して差し込む日の光に徐々に浮かび上がる意識。
何とかとろりとしたまどろみから抜け出したなまえは、瞬きをして滲んだ視界を明瞭にしていく。
周囲の輪郭をはっきりと映し出した目に最初に飛び込んで来たのは大きな瞳。
吸い込まれるような黒曜の色彩が綺麗だなぁなんて呑気なことを思いながら、込み上げたあくびを噛み殺した。

視線がからみあったままそのふたつのまなこに向かってへにゃりと笑いかけると、それはかすかに肩を跳ねさせてまぶたを2、3度またたかせる。
眠気のおかげでぼんやりと霞みがかった頭を持ち上げて、いつの間にか身を起こしていた男の子へ声をかけた。


「おはよう」
「………、」
「あ、あのね、私怪しい人とかじゃないよ!誘拐したんじゃなくて、昨日の晩君が倒れてたからここに運んだだけで…。………?もしもーし?」
「……あ、すみません」


言い訳を重ねるなまえをぼうっと見上げ、まだ状況を飲み込めていないらしいその子の目の前でひらひらと手のひらを泳がせると、漸く我に返ったように頭を下げた。

行儀良くベッドの上にちょこんと正座する彼に、なまえまでもがつられて背筋を伸ばす。
目の前の彼が持つさらさらと肩にかけて流れる黒髪と、猫の目にも似た大きな瞳を見て整った顔立ちをしているなぁと取り留めもなく思った。
しかしまだ幼い子どもとベッドの上で向かい合うとは何とも可笑しな光景だ。

そういえばいつから目覚めていたのだろう。
起こしてくれてよかったのに、と考えて、しかし見知らぬ女が拳ひとつ分ほどの距離で眠っていたら声をかけたくともかけられないか、と思い直す。
どこか落ち着かない様子で身体を縮こめる男の子の目線に合わせるように背を丸め、優しい声音でゆっくりと語りかけた。


「驚いてるかも知れないけど、とりあえず私は君を家まで送り届けないといけないの。君はどこに住んでいるのかな?」
「…山間にある村の外れ、です」
「村?村…この辺に村なんかあったかなぁ……えっと携帯携帯」
「…!」


枕元に置いてあった携帯を手にすると、奇妙な物でも見るかのように目を見開いてひゅっと息を飲んだ男の子に小さく首を傾げる。

携帯が珍しいのだろうか。山深くの村に住んでいると言うのだから、こういう文明機器にはうといところもあるのかも知れないとひとり頷いて、地図機能を呼び出す。

此処に越してきて数年経つけれど、なまえはこの辺りの地理に不案内で、加えて生粋の方向音痴でもあった。大学の構内で未だに迷うほどである。
操作に四苦八苦しながらむ、と眉を寄せているなまえをじっと見つめていた彼が静かに訊ねた。


「それ何ですか?」
「携帯だよ。知らないかな?ほら、これは地図ね、ここが現在地で……うーん、近くに村なんてないみたいだけど…」
「………私、は」
「うん?」


なまえの手元をのぞきこんだ彼の瞳がかすかに震える。
液晶から目を上げ、きゅ、とシャツの裾を握った男の子は、自分を取り巻く周囲を見定めるように艶のかかったフローリングやパソコンなどの置かれた机、彼をやわらかく受け止める寝台に視線を巡らせる。
そうして彼は、現実を噛みしめるように1度目を伏せてしまった。

わずかに俯いた男の子の肩に触れようと手を伸ばした時、ゆるい動きで面を上げた彼は意を決したように息を吸い込む。


「私は…夢でも見ているのでしょうか?」
「えっ?ここはちゃんと現実で……いや、仮に君の言う通りだとしたら私は君の夢の中だけの存在ってこと…?そんなまさか…!
でももしかしたらこれは全部君のつくりだした夢で、私は君の頭の中だけに存在する人間ってこともあるかも知れない…!確かめられないし!だったらだめ、目を覚ましちゃだめ、まだ死にたくないよ!」
「いえ落ち着いてください、少し確認したかっただけです」


何気なく問いかけたそれに想像をふくらませ、1人わたわたと焦って肩を掴むなまえに彼は眉をしかめた。

確かに聞き方も悪かったが、それにしたってあの一言でここまで取り乱す彼女はいろいろと大丈夫なのだろうかと曖昧な心配を胸に落としながら息をつく。
自身より余程切羽詰まったように慌てる彼女を見ていると、かえって冷静に事態を分析することができた。

とりあえず状況を整理するべくか細い記憶の糸をたどる。
あの村の連中に雨乞いの生け贄にされたことまでは覚えている。慣れない装束を身につけ、その時を待って眠りについて、それから先はどうにも記憶がおぼろげだ。

とりあえず今わかっていることは、此処と元いたあの村は異なる場所らしいということ。
そしてそれはきっと世界、若しくは時代という大きな規模で、だ。
整った環境と見たこともない物体の転がるこの場所は、元の世界よりも進んだ時代である可能性も少なくない。彼女を見る限り人体のつくりは変わっていないようだから、恐らくこの考えで当たっている筈だ。

これが死に際に見ている夢うつつという線もなくはないが、今は眼前で目を回しかけている彼女に頼るしかないのだろう。


「私はどうやら、過去から来たようです」
「へ……?」
「ですから、過去から」
「じゃ、じゃあ私はちゃんと実在する!?消えちゃったりしない!?」
「…そうですね」


何だか面倒になってきたのもあり、半ば投げやりに頷いてみせるとはあ、と安心したように息をついた彼女がゆるりと唇に微笑みを乗せる。


「よかったー、ところで帰り方はわかるの?」
「…いえ、それは…」


普通の人間ならば到底信じられそうもない話をするりと鵜呑みにしたらしい彼女に、またもや不安が湧き上がる。
いつか良からぬことを企む輩に騙されてしまうのではと懸念する心内を知ってか知らずかにこやかに笑ったなまえは、安堵を促すように彼の小さな両の手のひらをやわらかく包み込む。
そのきらきらとした太陽の日差しにも似た笑みが、何故だかとてもまぶしく思えた。


「じゃあここにいるといいよ!帰れるまで今日からここが君の家、ね?」
「…いいのですか?」
「いいよ、寧ろ大歓迎!一人暮らしってなかなか寂しくて……あ、自己紹介がまだだったよね。私はみょうじなまえ、君は?」
「丁と申します」


丁くん、と確かめるように口の中で繰り返したなまえは繋いだ手を揺らし、よろしくね、と再び丁に向けて笑顔を咲かせる。
そのじわじわと素肌に伝わるあたたかい手のひらの感触と、目映いなまえの笑顔に目を細めながら丁寧に頭を下げた。


「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」


なまえはかすかに握り返された小さな手にゆるゆると心がほぐれていくのを感じながら、口元の笑みを深めたのだった。


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