ゆりかごの中で眠りについているように、ゆらゆらと優しく揺らされる感覚。深い深い水底に沈むような意識の混濁。 心地よいそれに身を委ねていると、がたん、と身体に伝わった衝撃で目が覚めた。 どうやら眠ってしまっていたみたいだ。 車内に響く案内の声に、降りなければいけない停留所が近いことを知る。 眠気を取ろうとぱちぱちと目をまたたかせ、何気なく外を見やれば黒くくり抜かれた窓硝子をキャンバスに電灯の光に照らされた雫がぽつりぽつりと模様を描いている。 バスに乗り込んだ時には辛うじて景色が見えるほどの日光に映し出されていた空も、とっぷりと夜の闇に覆われていた。 おまけに雨も降り出したようだ。窓を横切る透明な線に息をつく。 バス停から自宅であるアパートまではそう時間もかからないけれど、生憎傘を持っていない。こんなことなら今朝きちんと天気予報を見ておくんだったとなまえは憂鬱混じりに眉を下げた。 暫く時折すれ違う車の明かりを眺めていると、目的の停留所へと到着したらしくわずかな振動を伝えてバスが停車した。 外は結構な大雨のようだ。ざあざあと行く手を遮るような大粒の涙をこぼす空を見上げたなまえは、意を決してコンクリートに固められた地面に降りたつ。 水滴の幕越しに見える、家屋の窓から射す煌々とした電灯の光に目を細め、早く温かい家に帰りたいと吐息する。 住宅街に位置する停留所に人の影はなく、ここからはひたすら家を目指して走るだけだと駆け出す姿勢を取った、その時だった。 視界の端に、何か白い物をとらえたのだ。停留所に備え付けられたベンチの後ろ、そこに身を横たえる白い布のようなそれ。 普段ならば何か洗濯物でも飛ばされたのかと気にも留めない物に、その時は何故か心を惹きつけられて仕方なかった。 か細い声でなまえを呼んでいるような、そんな気がした。 ここでその白い物が何なのか確認しなければ気になって夜も眠れない予感がしたのだ。 背後を通りすぎていくバスには一切意識を向けることなく、じっと暗闇に浮かぶその純白を見つめる。 絶え間なく降り注ぐ水のカーテンに身を包まれながら一歩、また一歩と近づいていく。 じわりと下着まで染み込んでいく雫を煩わしく思いつつ、ベンチの後ろへと回ってその正体を確かめようと目を凝らした。 目視出来たのは、随分前からそこにあったのか水分をふくみ重たく沈んだ布の膨らみ。 よくよく見ればその布地からはみ出しているのは人の足のように見える。その足は漂白剤にさらされたように白く抜けていて、薄っすらと青白い。横たわるそれに恐る恐る視線を滑らせると、頭髪のようなものも認識できた。 もしかすると、いやもしかしなくとも人間、だろうか。 しかも大きさを見るとそれはまだ幼い子どものように思えた。 「うそ、子ども…!?」 ばしゃ、と水たまりを跳ね上げるのも構わず慌てて子どもに近寄り、その小さな身体を抱き起こす。 胸元に耳を寄せると、とくん、とくんとゆったりとした心音が届いてほっと胸を撫で下ろした。 見る限り男の子だろうか。 とりあえずこんなところで濡れていては病気に罹ってしまう。周囲に首を巡らせても男の子の保護者が迎えに来る様子はない。 迷った末にその子を雨から守るように胸へ抱きかかえると、今度こそ自宅へ足を走らせたのだった。 * 玄関へと駆け込んだなまえは雨に濡れた衣服が廊下に足あとをつくるのにも頓着せず、男の子をソファへと寝かせると風呂を沸かすべく浴室へと走る。 子供用の服なんかあったかなと思考を廻らせながら客用のバスタオルを引っ張り出し居間に戻ると、男の子と自分のしとどに濡れた身体を拭いていく。 彼の流れるような黒髪は雫を滴らせており、未だ固く閉じられたままのまぶたを不安をにじませながら見つめる。あどけない額にかかったその髪を優しく払ってやりつつやわらかな頬を撫でると、子どもらしからぬ肌の冷たさに眉をひそめた。 やはり雨のせいですっかり体温を奪われてしまっている。 男の子が身につけていた勾玉を連ねたような首飾りや頭の装飾は気になったけれど、兎にも角にもこの冷えきった身体をどうにかしなければならない。 高い機械音が湯が沸いたことを知らせるのを聞き、男の子の意識が戻らないことを鑑みながら入浴の間には目を覚まさないだろうと当たりをつける。 もうそれならば一緒に入ってしまえと思い立ったなまえは手早く男の子の服を脱がせ、自身も裸に剥くとほかほかと湯気ののぼる浴室へと足を踏み入れた。 彼を落とさないようぎゅっと抱きしめながら湯船の中に浸かり、ほうと一息つく。 あたたかい熱が冷えた身体の芯にじわじわと染み込んでいく感覚にゆるりと瞳を緩めると、眠りにとらわれたままの男の子へと視線をうつした。 まだちゃんと温まっていないのかも知れないと思い、ちゃぷん、と湯に波をたてながら彼の細い腕や脚をさすってやる。 自身の体温をうつすように、何度も何度も。 「大丈夫かな…このまま目を覚まさなかったら……」 思わず口からこぼれてしまった懸念を振り払うようにぶんぶんとかぶりを振ると、その振動が響いたのかふるりと男の子のまぶたが震えた。 漸く目覚めの兆しを見せたその子に安心するのも束の間、この状況は少しまずいのではと思い至る。 緊急時だったとはいえ半ば誘拐に近いことをした上、目を覚ましたら全裸の女が同じく裸の自分を抱えている…… 幼いこの子にトラウマでも植え付けてしまったらと思案したなまえは機敏に行動を開始した。 彼が浅い眠りから抜け出さないよう極力揺れを伝えないことに気を使い、さっと浴室から撤退する。 とりあえず服を身につけ、男の子にはなまえが持っている衣服の中で1番小さなサイズのシャツを着せた。それですら大分裾が余って肩からずり落ちてしまいそうだったけれど、今はこれで我慢してもらう他ない。 ソファは先ほど濡れてしまったから足早に私室へと向かい、ベッドに彼を横たわらせるとひと仕事終えたようにふう、と息をついた。 生まれてこの方これ程までに俊敏な動きを見せたことがあっただろうか。普段どちらかといえばのんびりとしているなまえには考えられない早さだ。 友人が見たら目を丸くしただろう。 それはともかくとして、どうやら男の子は再び眠りの淵に誘われてしまったようだ。 先よりは穏やかな寝息を繰り返し、幼い寝顔をのぞかせているところを見ると風邪などもひかずに済んだようだ。 気が緩んでしまったのか、なまえにもとろとろとした眠気が押し寄せる。幸い明日は休日だ。 今日はもう寝てしまおう、と男の子の隣に身体を滑りこませた。 少し狭いけれど、子どもと寝る分には差し支えない程度だ。 すやすやとすこやかに眠る男の子に布団をかけてやり、なまえもゆっくりと目を閉じる。 明日になったら彼にこの状況をどう説明しようかと頭を悩ませつつ、なまえをやわらかくくるむまどろみに意識を手放したのだった。 |