うたかたの、 | ナノ




「ただいまー」
「……」


胸をぎしぎしと縛りつける悲哀をどこかへ消し去ろうとでもするかのように明るい声音を響かせるなまえ。
そんな彼女にかすかに口を開き、ためらうように再び唇を引き結んだ丁は逃げるように前を行く彼女を追う。
いつも丁の歩調に合わせてくれる彼女は足早に廊下を進み、私室の前で立ち止まると取り繕ったようなくしゃりとした笑みを丁に向けた。


「着替えてくるね」
「…はい。居間でまってます」
「…うん」


こくんと小さく頷いたなまえの表情は笑顔を形づくっていたけれど、見たこともないような痛々しいそれにきゅっと眉根が寄る。

彼女にこんなにも悲しい顔をさせているのは自分なのだ。

息が詰まるような心苦しさを覚えながらも、かすかな嬉しさが湧き上がる自身の胸の内に眉をひそめる。
そうやって深い感情を植え付けるごとに、彼女の心には丁の存在が色濃く影を落とすだろう。なまえの望まないことだとは知りつつももっと彼女を繋ぎとめたいと願ってしまう自分がいることにも気がついていた。

なまえが与えてくれるあたたかい感情とは対極の、どろどろとした汚い欲。純真無垢、清廉潔白であるべき幼子が澱んだ想いに心を染めていることなど彼女は露ほども思わないのだろう。丁はなまえを飲み込んだ扉を一瞥して、わずかに下唇を噛んだ。


抱き上げてくれる主をなくし、力なく足元に転がった鞄には目もくれず、なまえはただ手のひらを見つめた。
丁を待たせていることは承知している。一刻も早く彼から事実を聞かなければならないことも理解している。
けれど胸をまとわりつく苦い思いに囚われるように、なまえの動きは鈍くなっていった。清く澄んだ水が土煙に濁ったように、なまえの頭は上手く働いてくれなかった。

ただひとつ胸に落ちるのは、どうしたらいいのだろうという疑問。
このまま明るく丁にお別れを言うのが正解?後腐れしないよう綺麗になまえのことを忘れてくれるように、丁が前に進めるように送り出してあげるのが1番良い選択なのだろうか。

大切なひととの別れを前以て心づもりすることなど初めてで、正しい答えが何なのかなどわからなかった。しかし、少なくとも泣いて縋って彼の心にしこりを残してしまうよりはきっといい。

なまえらしく朗らかに明るく、お別れを言おう。

またどこかで会えたらいいね、ってそんな叶わない夢を口にして、心に蔓延る重たい感情を笑顔でうやむやに誤魔化して。素敵な思い出として丁の心の隅にでも置いておいてくれたら、それでいい。

そう自分に言い聞かせて、ドアに凭れるようにして強張っていた身体を半ば無理にほぐし、着替えを済ますべく箪笥を開ける。


「………」


引き出しを開けた瞬間、自分のそれと並んで几帳面に畳まれた服が目に飛び込んでくる。少し大雑把に重ねられたなまえの物とは違い生真面目に隣り合う、なまえには到底着られそうにないサイズのそれ。

思い返せば、丁に比べて衣服を粗末に扱ってしまうなまえは彼に叱られながら洗濯物を畳むことが多かった。
太陽の光をいっぱいに吸い込んだそれらにふざけて飛び込んでは怒られ、そんな丁を巻き添えにしてやわらかな布地にくるまれながら笑って。抱きしめた時の丁のぬくもりや触れ合った手の感触、偶に寄せられるかすかな笑み。

優しい思い出ばかりが頭の中にあふれて止まらない。
大好きな丁とのいとしい記憶のかけら。

今からこんなことでどうするんだと自分を叱咤しても一旦こぼれた想いの洪水を堰き止めることはできなくて、こみ上げる感情の波がしずくとなって瞳を潤す。
ぼろぼろと頬を伝う涙、引きつるような喉に痛みが走った。力なく膝からくずおれて、冷たいフローリングに座り込んだまま大切な名前を音につむぐ。


「丁、くん…っ」


苦しげになまえが絞りだした小さな呼び声に答えるように、ちりん、と涼やかな鈴の音色が耳に届いた。
遅いなまえを案じたのだろう、扉を挟んだ向こう側に丁が立っている気配がした。逡巡するような間の後、控えめな声がなまえを呼ぶ。


「なまえさん?大丈夫ですか?」
「………っ、」
「なまえさん…?」
「……ん、大丈夫…だよ」


嗚咽をこらえて何とか返事を返し、頬を濡らす涙のあとを拭う。
暫く沈黙が漂い、ドアノブをひねる音が静寂を割る。静かに開いた扉の隙間から丁が顔をのぞかせた。まだ着替えていないなまえの姿を目に留め、ほのかに赤く染まった瞳と視線をからめると驚いたようにその大きな目を見開いた。

少しの間戸惑いを見せていた丁は思い直したようになまえを見上げる。
その強い眼差しに困ったように笑うと、彼は床にうずくまっているなまえに合わせるように膝を曲げた。


「泣いていたんですか?」
「……ばれちゃった」
「…なぜですか」
「それ聞いちゃうの?」


眉尻を下げたなまえに問いを重ねると、口角を引き上げたなまえは自虐するような笑いをもらして息をつく。

ぎゅっと固く握られた拳を見やった丁は、そっとなまえの手のひらを両手で包み込んでゆるゆると撫でた。まるでなまえの心ごと溶かすように、凝り固まった彼女の手をほぐしていく。

やわらかな手のひらに何度も優しくさすられて、なまえのそれからふっと力が抜けていった。そうしてほどけた手をきゅっと捕まえられる。丁のぬくもりに促されるように、なまえはぽつりぽつりと言葉を落としていく。


「いつかお別れしなきゃいけないのはわかってたから、平気だと思ってた……。
でも、頭では理解してても心が納得してくれないの……嫌だよ、さよならなんてしたくないよ、お別れの言葉なんて言いたくないよ…!丁くんのことこんなに大好きなのに、何で……?」


指の隙間から砂の粒がさらさらとこぼれゆくように、ずっと胸の内にしまっておいた想いが唇からもれていく。音に、言葉にした途端に現実味を帯びていく離別を想ってわきたつ感情のままに弛んでいく涙の線。
笑顔でお別れするって決めたのになぁ、と丁の輪郭がくずれていくのを見ながら目の縁からあふれそうになる雫をこらえる。
そんななまえを虹彩に焼き付けるように見つめた丁は、繋いだ手にぎゅっと力を込めてうつむきがちな彼女の顔をのぞきこんだ。


「たとえ何千年かかったとしても、私はまたなまえさんに会いにいきます」
「無理だよそんなの、出来っこないよ…っ」
「嘘などつきません。会いにいきます、あなたに誓います」
「………本当?」
「ええ、約束します」


射すくめるような強い眼差しと芯の通った科白になまえはゆらりと瞳を揺らした。
いつか交わした儚い約束ではない。不確かで曖昧だけれど、この契りだけは決して反故にしたりはしない。そう心に、目の前の彼女に誓って、丁はあの時なまえがしたように小指を差し出した。


「……うん、わかった。約束」


また会える保証はどこにもないというのに、丁の黒曜色をした瞳を見ているといつか本当に会いに来てくれるのではないかという根拠のない確信が胸をよぎって。小さなそれに指先をからめ、ふわりと微笑んでみせる。
漸く垣間見えたなまえの笑みに安堵してひとつ吐息した丁は、つられるようにしてゆるく瞳を細めたのだった。


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