うたかたの、 | ナノ




いくら拒んでも何れほどの嫌悪を抱いても、抗えない運命というものは存在するのだと初めて知った。共に寄り添えるかけがえのないこの時間は、そんな決められた道筋の上に成り立つまほろば。儚くておぼろげで、手に触れた瞬間砂のようにこぼれ落ちていく夢うつつ。

そんなことは出会った瞬間から、わかり切っていたことなのに。

如何してこんなにも張り裂けそうなほど胸が痛むのだろう。たった1週間ともに過ごしただけ。他愛のない、それでもいとしい言葉たちを交わしあい、笑いあっただけ。
傍目から見れば何ということもないくだらない思い出が心の奥底に居座って、自身の中心をゆるく締め付けた。それは徐々に甘い痛みと熱を伴い全身をむしばんでいく。すべてを浸食していく。

それが私の一切であるかのように。




ゆらゆらと、送り火にも似た明かりが暗闇を揺るがす。
そうだ、あれは炎。
魂の灯火であるかのような、丁をいざない導く光。

曖昧なまどろみの中で、優しい光はもうすでに傍にあるのに、と考えてゆるゆるとかぶりを振る。
彼女は丁にとって大切でたまらないやわらかな光を放つ太陽のようなひとだが、自分を在るべき場所へ導いてはくれない。
ただ隣に寄り添って、あたたかな想いをくれるだけ。あたたかい体温で冷えきった心ごと包んでくれるだけ。

自分のいくべき場所は、あちらだ。この深い暗がりの向こう側にある、彼方だ。

丁の意思すらも飲み込む、どろどろと澱んだ思惟を読んだようにひとつ揺らめいた炎はおもむろに彼との距離を縮めていく。
以前のように激しく厭うことはなかった。身体を1枚の柔らかな布でくるまれているようなぬくもりを感じられるからだろうか。まるで彼女が影のごとく見守ってくれているような気がしたからだろうか。
それとも彼女の心の髄で息づく自分を知ったからだろうか。

胸の辺りで小さく震えたそれは、やがて丁の肌の裏側へと潜り込んでいった。それに続くようにひとつふたつと内へ消えていくほむらは、その火影を丁の影法師と重ねるようにして身を沈めていく。

ひとつになった、やっと自分自身を取り戻すことができた。

そう思えた。思ってしまった。
それはつまりあの心地よい世界を、居場所を、―彼女を手放さなくてはならないということで。

ぽとんと胸に落ちた思考の粒は、悲哀をふくんでじわじわと芯に染み込んでいく。その想いが瞳に滴ったように視界がぼやけて、見つめていた手のひらの輪郭が溶けていった。丁を支える根底が揺らいだ。心休まる足場をなくしたような気がして、ぐらりと身体が傾く。

ああ、もう残された時間は少ないのだ。
そう漠然と感じ取った。
彼女と……なまえと同じ時を分かちあうことが出来るのはあとほんの少しの間だけだと身に沁みるほど思い知って、頬を伝うぬるい雫をそっと拭った。





「わー、ゾウにパンダにコアラに猿…何から見る?」
「そうですね、……コアラって抱っこ出来るんでしょうか」
「うーん、丁くんに持てるかなぁ」


手を繋ぎあって、案内図を見ながらきらきらと瞳を輝かせるなまえを見上げ、頭に被ったキャスケットを目深に被り直す。

今朝、例のごとく太陽と共に目が覚めた丁は、額を内側から突つかれているような妙な疼きに襲われた。隣で穏やかに寝息を立てるなまえを起こさぬよう寝所を抜け出して姿見をのぞきこめば、そこに白く小さな瘤のようなものがぷくりと顔を出しているのを見つけたのだ。
それはつぼみが芽吹くように形を成し、だんだんとふくらんで大きくなっていくように思えた。

人ではなくなってきている。

取り留めもなくそう察した丁は、なまえに打ち明けようか散々逡巡した末に口をつぐむことにしたのだった。
せめて最後になるだろうこの思い出を綺麗に形づくれるまでは、無情な現実に目を瞑ろうと考えた。幸い髪で隠せるほどのかすかな凹凸であったし、キャスケットを被れば外でもバレることはないだろう。

この幸せなひとときが終わるまでは、余計な憂いは哀惜と共に胸の内側に沈めておこうと決めて、楽しげに案内図を指さすなまえを見守った。


「じゃあコアラから行こうか?」
「はい」
「丁くんテレビで特集見てからコアラの大ファンだもんねー」
「ファンって何ですか……って、どこ行くんです」
「え?コアラがいるエリア」
「そっちは真逆ですよ」


目的地とは逆方向へと足を向けるなまえは丁の言葉にえ?と無垢に首を傾げる。
その病的なまでの方向音痴はどうにかならないものかと眉をしかめつつ彼女のやわらかな手を引いた。
これでは片時だって目が離せない。

そういえばなまえと出会ってからは彼女の心配ばかりしていたように思える。そんなことに心を傾ける余裕などなかったはずなのに、なまえを想ってやまなかった。
明朗で表裏がない彼女だからここまで惹かれたのだ。きっとなまえ以外ではあり得ないこと。
そんなことを思案して、照れくさそうにはにかみながら丁に手を引かれるなまえを見上げた。


「あ…コアラ寝てるね」
「睡眠時間が約20時間だそうですから、仕方ありませんね」
「そっか、残念……」


透けたガラスを通して中をのぞけば、生憎彼は眠っていたようで。
木にしがみついてうとうととまどろむそれは安寧の中にいるように穏やかで、何ともなしになまえの寝顔を思い出してしまう。
そんな胸中に沿うようにほぐれそうになった頬をうつむいて隠せば、何を勘違いしたのか慌てて屈み込んだなまえに両の手をぎゅっと包み込まれた。


「げ、元気出して丁くん!えっと、あ、うさぎに触れあえる広場があったはずだからそこに行こう!ね!」
「………」
「あっ金魚の方がいいかな!?池にいく?」
「……」
「…丁くん……」


丁が落ち込んでいると思ったのだろう、元気付けようとするなまえの方がしゅん、と眉を下げ、よほど泣きそうな顔をしている。
それが可笑しくて思わず唇の端からふっと笑みをもらすと、一瞬軽く目を見開いたあと、怒ったような表情を繕ったなまえにゆるく叱られた。

かすかに頬をふくらませるなまえのそこを指の先で軽くつつけば、ぷす、と空気が抜けてふたり同時に吹き出してしまう。

くすくすと笑うなまえと、微笑を唇に乗せた丁。傍目から見ても仲のいい姉弟にしか見えないのだろう、二人の様子を微笑ましく見つめながら通りすがる人々の眼差しにくすぐったそうな照れ笑いを浮かべたなまえは、立ち上がって丁の手のひらを握りなおした。


「さ、行こう」
「ええ。…確か池の傍にはベンチがありましたよね?そこでお昼にするというのはいかがでしょう」
「うん、じゃあうさぎからだね!」


たどり着いたそこはうさぎが自由に歩き回っていて、なまえはその中の一匹を捕まえて丁に手渡してやる。
腕の中いっぱいに抱き込まれたうさぎはつぶらな瞳を腕の主に向け、それにどこかゆるんだ眼差しを寄せる丁。

やわらかな毛並みをそっと撫でる丁にふわりと表情を和ませると目があって、わずかに気恥ずかしそうに顔を逸らした彼にまた顔がほころんでしまう。

動物たちとの触れあいを堪能する丁の一方で、なまえはほのかに表情を沈ませた。彼女も丁の様子が普段と異なることには気がついていたのだ。

丁は何も言ってくれないけれど、元いた場所に帰る予兆があったのだろうと悟る。目の前で飾らない表情を見せてくれる彼と、もうすぐお別れだなんて信じたくないのに。神様でもない限り、流れゆく時間の川を堰き止めることは出来ない。

ぎしりと軋む胸に手を当てながらあえかに肩を震わせたなまえに丁は小さく首を傾げる。
1度逸れてしまった思考の筋を安易に曲げることはできなくて、その悲しみの混じった瞳と見交わした丁は彼女の手をやわく取った。


「どうしたんですか?」
「…ううん、何でもないよ。それより池に行こうか?」
「……いいえ、やはり帰りましょう」
「え?」
「伝えなければならないことが、あります」


このまま隠し通すことはもう出来ない。憂心をのぞかせたなまえを放ってこの場をひとり楽しむことなど出来る訳がない。

やわらかに握ったなまえの手の甲をするりと撫で、安心させるように1度小さな両手でくるんでくれた丁にぎこちなく口角を持ち上げる。
予定より随分と早く帰路についた2人が交わす言葉は少なく、近いうちに訪れるだろう永別の時にそれぞれが思いを馳せたのだった。


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