やわらかな風が頬を撫で、髪を優しく梳いていく。さらさらとささめく葉の音色が耳に心地よく、揺れる木漏れ日に目を細める。 桃源郷の地を踏みしめ、隣を見上げればいとしい濡羽色と眼差しがからむ。そんな他愛ない出来事に幸福を感じながら、目と鼻の先に迫った店を仰いだ。 そこには白澤が経営する薬局、極楽満月が居を構えている。 高天原ショッピングモールに用事があったのだけれど、何の気なしに立ち寄った店。また彼の気まぐれだろう、客の姿が見えないのをいいことにどこからともなく取り出した縄を店の前に張り、端を持って待機し始めた鬼灯に苦笑がもれる。 「ほ、鬼灯さん?ロープなんて仕掛けて何をしているんですか?」 「まぁ見ていてくださいよ」 こういう罠を回避出来た試しのない白澤を心配していると鬼灯に手を引かれ、彼の隣に屈み込む形になってしまう。 忠告する余裕もなくがらりと開いた扉に思わず目を瞑れば、勢いよく飛び出してきた白澤が案の定盛大に足を引っ掛けて転んでしまった。 たらりと鼻血を出しながら何が起こったのかすら理解出来ずにきょろきょろと辺りを見回す白澤に、鬼灯が声を張り上げる。 「ごきげんいかが!?」 「うおおおおお!?出やがった!!せめて意味のある悪戯をしろ!!」 「…もう…なんか大義名分もない、ムシャクシャしてやった」 「とどのつまり通り魔!!」 派手な音を響かせて顔面をしたたかに打った白澤は鼻の頭を擦りむいてしまっていた。なまえにまで痛みが伝染してしまったように顔をしかめた彼女は、ハンカチを取り出して白澤に差し出す。 「白澤様大丈夫ですか?血が…これ使ってください」 「ありがとうね、でも」 「駄目ですよ、汚れるでしょう?貴方も図々しいですね」 「僕も今断ろうとしたんだけど!?」 なまえを間に挟み、再びぎゃあぎゃあと言い合いを始めた彼らに口元を引きつらせる。 余計な火種を放ってしまった、と反省しつつ2人の間から何とか抜け出し、遠巻きに諍いの行く末を見守っていたお香と桃太郎に近づいていく。 「ごめんなさい鬼灯さんが…」 「いや、なまえさんのせいじゃないですし」 「そうよ、気にすることないわァ。それにしても金太郎さんに比べてこの2人ときたら…」 「金太郎さん?」 金太郎といえば彼の逸話が綴られた物語が真っ先に浮かぶ。童話にもなり、人々の間でまことしやかに語られている彼は今衆合地獄の用心棒を務めている。 彼は気が優しく逞しい、まさに理想の男性像として引く手数多だと聞いているけれど、と首を傾げたなまえに、お香が優しく説明してくれた。 金太郎に比べて白澤は軽薄、鬼灯は厳格さが目立つ。 つまり鬼灯と白澤を足して2で割れば優しく力持ちな理想の男性になるという訳だ。 「でも、なまえちゃんには鬼灯様が理想の男性なのかしらね?」 「えっ!あ…あの…ええっと…」 「ふふ、顔赤いわよォ?」 「か、からかわないでくださいよお香さん…!」 ごめんねェ、と柔和に微笑みながら囁くお香にますます頬が熱くなる。 鬼灯が理想の男性だから好きになったというより、好いたひとこそが好みであり理想の男性になると思うのだけれど、気恥ずかしくてそんなことは言葉に出来ない。 お香と桃太郎から寄せられる生暖かい視線が面はゆくて、ほわりと頬を火照らせたまま苦し紛れに足を進め、鬼灯の袖を引く。 「は、早く高天原に行きましょうよ!」 「おやなまえ、どうしたんですかそんなに顔を赤らめて」 「……、あ!お香さんも一緒にどうですか?」 「なまえ?」 小さく首を傾げた鬼灯にそっと頬をなぞられて耳の先まで熱が灯ってしまったなまえは一瞬息を詰まらせ、お香を振り返る。 逃げるようにするりと手をくぐって行ってしまったなまえに、鬼灯は不思議そうにひとつ瞬きをした。 「ショッピング?行ってみたいわ」 「じゃあ行きましょう!いいですよね鬼灯さん?」 「構いませんけど…」 「えー、コイツ抜きにして3人で行こうよー」 「そうおっしゃらずに」 「仲良くね」 なだめるように穏やかな微笑みを浮かべたなまえとお香をそれぞれ見つめた鬼灯たちは、2人を挟んで睨み合うように目を交わしたあと諦めたように息をついたのだった。 * そうしてたどり着いた高天原のショッピングモール。もの珍しい商品を置く店が立ち並ぶ中でも一際品揃えが豊富な問屋に足を向ける。 各々好きに品物を眺める中、綺麗な簪や小物が並ぶ棚をお香と見て回る。その中に見つけた花飾りのついたひとつを手に取り、彼女と顔を見合わせた。 「わぁ」 「可愛いわねェ」 「本当ですね、お揃いにしちゃいます?」 「それいいわァ」 「じゃあ買ってあげようか?」 「いえ、でも…あっ」 穏やかに笑みを交わしながらそんなことを話していると、たゆんだ頬を露にした白澤がひょこりと顔をのぞかせる。彼の申し出を断る前に、ひょいと横から伸びた武骨な手がふたつの簪をさらっていってしまった。 顔をあげれば、先ほどまで薬棚を見ていたはずの鬼灯がそれらをさっさと会計に運んで行くのが見える。慌ててお香と止めに入るけれど、手際よく支払いを終えた鬼灯に簪を手渡されてしまった。 申し訳ないと思いつつも、彼からの贈り物とも呼べるそれに喜びを表したように顔がほころんでしまう。 一方で、美味しいところを横から掻っ攫われたことが癇に障ったのか涼しい顔をして戻ってきた鬼灯が気に入らなかったのか、青筋を立てて対抗心をむき出しにした白澤がなまえとお香の手を取った。 「なまえちゃん、お香ちゃん遠慮しないで!もっと高いの買ってあげる!!!」 「ええ!?悪いわよいいからホントに」 「何が1番高いかな…メロン!?ドリアン!?」 理解に苦しむ品物のチョイスや混乱していてよくわからないことを言っている、という突っ込みは胸のうちに留めておくことにして、白澤をどうにかなだめようとお香がその場を取り持つ。 「ドリアン…ドリアン欲しいわありがとう!今度ケーキにしておすそ分けするわね!」 「やったお香ちゃんの手作りケーキ……そのケーキ焼いたオーブンの臭い怖いな!?」 「そのオーブンに入りなさい」 「いちいち臓物にくる…!………ってあれ?なまえちゃんは?」 「あちらにいますよ」 いつの間にか輪を外れてふらふらと歩みを進めるなまえの動向を見守っていた鬼灯が指をさした先では、ショーケースの前で佇んでいる彼女の姿が。 硝子に守られた中には目にも鮮やかな和菓子たちが並べられていた。欲しいものでもあったのかと白澤が駆け寄り、その細い肩を叩く。 「どれが欲しいの?買ってあげるよ」 「あ、白澤様…いえ、ここのお店の和菓子鬼灯さんが好きなんです。おやつに買っていこうかと…」 「………」 「……ふっ」 「鼻で笑いやがったなお前!!!」 能面のような無表情なので笑ったとは言えないのだが、嘲るかの如く馬鹿にされていることを察した白澤が鬼灯に掴みかかる。 ぎりぎりと手に力を込め、取っ組み合いを始めてしまった2人に気がついたなまえはわたわたと手を振った。 「ご、ごめんなさい、でも特に欲しい物もないので気を使ってもらわなくて大丈夫ですよ…!」 「でもさぁなまえちゃん!」 「…本当に、そのお気持ちだけで充分嬉しいんです。ありがとうございます」 春の日向や草木に降り注ぐ慈雨、そんな優しいものを集めたような笑みを浮かべるなまえに、すっかり気を削がれた白澤がふっと息をつく。 その笑顔を見るだけで、ささくれだった心が柔らかさを取り戻したようだった。のだが、やはり臓物を引っ掻き回されたような不快さは消えることはない。 「……そこまで言うならいいけど…でもコイツが気に食わないことに変わりはない!!」 「まぁそうカリカリなさらず、貴方にも一つ買ってあげましたよ」 ごそごそと懐を探る鬼灯に条件反射のように肩を跳ねさせ、構える白澤に苦笑いをもらしていると、彼がすっと差し出したのは一冊の本。 タイトルは、推理小説『起こっていいのか!?天国殺人事件』の2巻だ。 白澤が1巻を持っているならば問題はないだろうけれど、あえて2巻を贈るなど嫌がらせ以外の何物でもない。 天国で起こる殺人事件を題材にしているところからもそこはかとなく悪意を感じる。 「くれよ1巻からよォーッッ」 「鬼灯さんったらもう、わざわざ喧嘩の元になるようなものを…」 「お二人は何でそんなに仲が悪いの?」 「男には引っ込みのつかない戦いがあるのです」 「そういうエネルギーは別のことに使った方がいいわ、それこそ金太郎さんみたいに…」 「あアレ金太郎だ」 白澤が指で示した先にいたのは渦中の人、金太郎だった。皆で見つめている間にも困っているひとに次々と出会い、1人も取りこぼすことなく助けていくその気概とたくましさに揃って感嘆の声をあげる。 金太郎が浮かべる優しい微笑みを向けられた訳でもないのに、こちらまで胸がほっこりと和むのは彼の性質ゆえだろう。 鬼灯もそんな善人を絵に描いたような彼を見て自らを省みたらしく、白澤に先ほどの小説の1巻を寄越してくるりと踵を返した。 呆気に取られる白澤と同様、いささか虚を突かれたような思いになりながらも、そう簡単に彼との間の深い亀裂が埋まるだろうかと不安を覚えてしまう。 「今日は停戦しましょう。帰りますよなまえ」 「あ、はい!白澤様、また」 「じゃあアタシも帰るわね」 お香と3人連れ立って歩く地獄への帰り道。遠くに見える針の峰々を眺めながら、ふと気になっていたことを口にする。 鬼灯が白澤に本を渡す前、何かを書き込んでいたような気がしたのだ。杞憂ならば良いのだけれど、と問うなまえに眉を持ち上げた鬼灯は、他愛のないことのように言葉を落とす。 「ああ、犯人を教えて差し上げたのですよ」 「ほ、鬼灯さん…」 親切心だとでも言いたげな声音に、なまえはお香と顔を見合わせ困ったように笑った。 彼らの仲が修繕されることはないのかもしれないと考えると胃の辺りが重たくなるけれど、相も変わらない日々が続いていくのだと思えば不思議と安堵に包まれるのだった。 |