レディ・リリス。 旧約聖書、創世記で最初の人類だとされるアダムにはイヴと結ばれる以前に妻がいたとされる説もある。それがリリスであり、アダムと一悶着あったのちエデンを出奔してしまった彼女はその後多くの悪魔と子供を設け、ベルゼブブの伴侶となった今に至るらしい。 悪女と名高い彼女が近々観光で来日したいとの書面が送られて来た。正確な日取りは知らされていなかったため、今にもやって来てしまうのではと懸念していたのだが。 「こういう窓アタシの部屋にも欲しーい」 まさか本当に今日訪問されるとは思いもよらず、もてなす準備も出来ないまま彼女を迎えることになってしまったのだ。 おまけに彼女、書物に誘惑が本分だと記されているだけあり男と見れば見境なく褒め称え、誘う厄介な癖があるようだ。 ぽっと頬を赤らめる男性陣に苦笑をこぼしていると、ふとなまえに目を止めたリリスが口を開く。 「貴女は?」 「申し遅れました、私閻魔大王の第二補佐官を務めさせて頂いております。なまえと申します」 「へぇそう、じゃあ結構偉いのねぇ」 「いえ!私はまだまだ若輩者で…!」 なまえを探るように上から下まで見澄ましたリリスは、次に隣に佇む鬼灯へ視線をうつす。ふたりを見比べた後、蟲惑的な笑みを浮かべたかと思えばその細く綺麗な指をすっと突きつけた。 鬼灯となまえ、2人にだ。 「この中で好みな貴方と…なまえちゃん、1日付き合って」 何故だか愉しげな微笑を唇に乗せたリリスに、鬼灯となまえは顔を見合わせ、どちらからともなく首を傾げたのだった。 * 行く先々で男性を誑かす彼女に尊敬の念を抱きながら順調に地獄を案内していく。 血の池地獄を興味津々に眺めるリリスに解説をする鬼灯、なまえは2人の脇に控えながら艶やかな雰囲気を漂わせる彼女へちらりと瞳を走らせた。 煽て褒める、女の武器を最大限に利用して相手を陥落させる。 リリスの言動を観察するように見守るなまえに気がついた鬼灯は訝しげな顔を向けた。 「なまえ、彼女から誘惑の手法を学ぼうとか考えていませんよね」 「え?か考えてませんよそんなこと…」 「………なまえには無理ですよ、こうされるだけで赤面するでしょう」 怪訝を露わにする鬼神から目を外し、真紅に揺れる水面へふらふらと視線をさまよわせるなまえに鋭い眼差しを投げた鬼灯は彼女の後頭部に手を伸ばした。そのままやわらかな髪に指先を差し込みながら引き寄せ、するするともの柔らかに梳く。 その優しく愛でるような触れ方と鼻先がかすめ合いそうなほどに近づく距離に、なまえは鬼灯の言葉通り頬にほのかな熱を灯した。 慌てて彼から離れるなまえとどこか不機嫌そうな鬼灯を見やったリリスは愉悦をふくんだ微笑みを唇に乗せ、そうかしら、と呟いた。 「直接的な誘惑に弱い男もいれば、彼女みたいな清楚な雰囲気に惹かれるひともいるわよ?…貴方みたいにね」 「………」 「なまえちゃん、男の人誘惑したいの?」 「い、いえ!外交の際に使えそうかなと思っただけで…」 慌ててかぶりを振ったなまえは地獄の、ひいては鬼灯のためにと思案していたようだ。 なまえの科白にくすりと笑みをたたえたリリスは、彼女の耳元へそっと唇を寄せる。そのささいな仕草に、女ながらにどきっと心臓を跳ねさせられるのはさすがというべきか。 「ならやめておいたら?彼を不安にさせるだけよ」 「不安…鬼灯さんが?」 「むしろ嫉妬してるのかしら」 内緒話をするようにぽつりと落とされた言葉に胸の奥がくすぐられるような感覚を覚える。 顔を寄せあうなまえたちにますます眉間にしわを刻み込む鬼灯を盗み見て、嬉しいような申し訳ないような、照れくさいような。様々な感情が込み上げて、そのひとつひとつに甘い砂糖を溶かしたような幸福の片鱗を見る。 ほんのりと桜色に染まった頬を自覚しながら、はたと思い至った。 「私、リリスさんに鬼灯さんとの関係お教えしましたか…?」 「アラ、見てればわかるわよ?お互い大切で仕方ないって顔してるもの」 「…!」 仕事中は出来る限り鬼灯を意識しないよう心がけていたのだが、どうやらリリスにはすべてお見通しだったようだ。 何だか恥ずかしいやらいたたまれないやらで、思わず両手で顔を覆ってしまった彼女にふっと微笑を深くしたリリスは鬼灯を仰いだ。 EUでは滅多にお目にかかれないほどの初心さに興味でも出てしまったのだろう、鬼灯は顔をしかめながらリリスを見返す。 「顔真っ赤にさせちゃって…彼女、いじり甲斐があるわね」 「程々にしておいてやってください」 「それって取られたくないってこと?アタシ女よ?」 「…性別は関係ありません」 鬼灯がふい、と目を逸らしながらもらす言葉の節々に嫉妬と焦燥、なまえへの色濃い慕情を敏感に感じ取ったリリスは一層口角を持ちあげる。 鉄面皮で冷徹な食えない補佐官がいると夫から聞いていたが、常世の鬼神も恋をしたら形無しだと考えつつリリスは鬼灯となまえの腕を取った。 「面白いものも見れたしここはもういいわ、他に行きたいところがあるのよ。連れてって」 「はい」 鬼灯と2人、間にリリスを挟むようにして向かったのは衆合地獄のとある花街。 なまめかしい色香がたゆたうそこで久方ぶりの再会を喜ぶように手を取り合うのはリリスと妲己だ。そう、ここは贅と淫楽を極めたという九尾の妖狐、妲己が営む遊郭だった。 一見華やかにも見えるその景観は、どこか妖しく艶やかな空気をにじませている。 あまり足を運んだことがなく見慣れない街並みをもの珍しそうに見回すなまえがどこかへ行ってしまわないように、鬼灯はそのやわらかな手をきゅっと握った。 「きょろきょろしない」 「すみません、つい」 「…しかし、物凄いツーショットもあったもんですねぇ……これ以上日本の男をたぶらかす要素が増えるのは…」 「ちょっとご遠慮願いたいですね…」 「すみません…最近アジア系の男性がキてるとかで……」 執事であるスケープが済まなそうに眉を下げるのを尻目に、リリスたちは様々な男を話の種とした談笑に夢中なようだ。なまえには到底縁のない世界の話である。 何だか彼女たちの背景に獲物という名の男を捕食する艶麗とした蜘蛛が見えたような気がして目をこすっていると、不意にこちらを見たリリスに誘うようにひらひらと手招きされ、まぶたをまたたかせながら近づいていく。 「彼女はなまえちゃん、いじり甲斐があってとっても可愛いわよ」 「貴女確か鬼灯様の……へぇ、面白そうね」 「えっ?あ、あの…?」 「ね、興味を引かれるわよね」 あの何者にも冷徹な鬼灯の心を揺さぶることが出来るのはなまえくらいだろう、と興味深そうに眺める妲己の視線に瞳をからめとられて、目を離せないまま見つめ合ってしまう。吸い込まれるような黄金色の瞳と、戯れのように、けれどどこか魅惑的につう、と頬を滑る白い指先。 見目麗しいふたりの美女に囲まれてじわじわと湧き上がる緊張と羞恥が限界を越えようとしたその時、彼女たちから庇うようにしてなまえの肩を引き寄せた安心できるぬくもりにほっと息をついた。 「あまりからかわないでやってくださいと申し上げたばかりでしょう」 「だって愉しいんだもの。……そうねぇ、貴方が愛人になってくれるって言うんならやめてもいいけど?」 「だ、だめです!鬼灯さんはっ…やめてください……!」 「ホラ、かわいい」 鬼灯を堂々と誘う言葉に慌てて2人の間に身体を滑り込ませたなまえは首を横に振って懸命にリリスを止めようと彼女と対峙する。鬼灯を守るようななまえの後ろ姿はいじらしく、こそばゆいようなあたたかい想いが彼の胸にあふれた。 それを振り払うようにまたもやなまえをいたずらにからかうリリスに意識を戻した鬼灯は肩をすくめる。彼女の言動はなまえを玩具にしつつ言外に誰かいい男を紹介しろと脅しているようなものだ。ふう、と海よりも深いため息を吐き出した鬼灯は少し思考を巡らせて、それならばと顎に手をやって口を開いた。 鬼灯が彼女に橋渡しをしたのは桃源郷住む神獣、白澤で。お互い求めているのは刺激を与えあえる遊び友達なのだろう。 顔を合わせた瞬間、何か通じるものがあったのか携帯を取り出した2人は言葉も交わさぬうちに連絡先を交換していた。 「あのお2人、気が合いそうですね」 「ええ…。しかしそれにしても今日は少し疲れました」 「えっ、大丈夫ですか?早めに帰りましょうか」 珍しく表情に疲労を浮き出させる鬼灯を心配して顔をのぞきこんだなまえは、熱はないかとやわさが残る彼の頬に手のひらを押し当てた。 目元をなぞるように滑るなまえの指先は冷えてしまっているらしく、鬼灯よりかすかに低いその体温が心地よい。さらりとしたなまえの肌とぬくもりに心がゆるくほどけていくのを感じながら彼女を見下ろす。 「本当にお疲れみたいですね…」 「まさか女性にまで気を張らなくてはならないとは、想定外だったので」 「…?」 理解していない様子でこてんと首を傾げるなまえがにくらしいやら愛しいやらで一層脱力感に襲われながら、頬を包む彼女の手に自分のそれを重ねる。 なまえの素肌に擦りよるように顔を傾けた鬼灯は甘えているのか、ゆっくりとまぶたを閉じて。なまえは長い睫毛が縁どるそこを見つめ、お疲れ様です、と心の中で彼を労いながら慈しむような微笑みをふわりとこぼしたのだった。 |