恋しぐれ | ナノ




鬼灯はEU地獄のベルゼブブの所まで調印をしに赴いている。その足で中国地獄へも行くと言っていたから帰りは遅くなるだろうと思い、なまえは買い物を済ませた後ひと足先に帰宅していた。

とんとん、と慣れた手つきで包丁を操り夕食を作るなまえの耳に届いたのは、玄関の戸がからりと開く音。水に濡れていた手をぬぐいながら慌てて駆けていくと、予想より随分と早く帰って来たらしい鬼灯が戸口に佇んでいたのだった。


「ただいま戻りました」
「鬼灯さん!おかえりなさい、早かったですね」
「EUでは調印だけ済ませてきましたからね」


そう説明する鬼神と蝿の王は馬が合わないだろうと思っていたのだが、機嫌は悪くなさそうだ。
案外意気投合したのかも知れない、と首を傾げるなまえに紙袋が手渡される。胸に抱えられるくらいの大きさの割には腕にかかる感触が軽い。少し拍子抜けしながら鬼灯を見上げた。


「これ何ですか?」
「お土産です。ベルゼブブさんに頂いて来たんですよ」


そう言いつつ眉間のしわをゆるめた鬼灯とベルゼブブの間に何があったのだろう。以前までいがみ合っていたとはとても思えない。この間も外交のために日本に訪れた彼と険悪な雰囲気になっていたのに、と2人の周囲に立ち込めていた重苦しい空気を思い出してふるりと身体を震わせた。

居間に入って行った彼が腰を落ち着けた柔らかな座布団の上は鬼灯の定位置だ。ひと心地ついたのか、鬼灯はどこかくつろいだ様子でなまえをちらりと見やって口を開いた。


「それよりお土産見ないんですか?」
「え?あ、はい。じゃあ…」


袋を探る手に触れたのはさらりとした質の良い布のようだった。服か何かだろうかとそれを取り出した途端、目に飛び込んできた衣装にぎしりと身体が強張ってしまう。

ひらひらと泳ぐ裾、レースをたっぷりとあしらわれたヘッドドレス。黒を基調としたワンピースと淡いプリーツの入ったエプロンがセットになったそれはどこから見ても所謂メイド服と呼ばれるもので。
衣装を掴む手が思わずふるふると震えてしまう。


「ミニスカじゃないところが良いですよね?」
「私に同意を求められても…!というかこれ何ですか!?」
「サタン王考案のメイド服ですよ、邸にいたお嬢さん方は皆着用されていました」


そう言う鬼灯の瞳は何かを訴えるようにぎらりとした一筋の光を宿していて、胸をよぎった嫌な予感に手に取っていたメイド服を手際良く袋にしまう。
如何して片付けてしまうんです、と作り物のような寂しげな声色で訊ねられるけれど、騙されないぞ、と気合いを入れるようにきゅっと眉を寄せた。


「夕食の準備をしますね、それとも先にお風呂の方が…」
「それを着て夕飯の支度をするなまえを堪能したいです」
「却下します!」


ねだるような視線もろ共ぴしゃりとはねつけると、不満そうに舌を打った鬼灯がなまえの持つ袋に恨めしそうな眼差しを投げる。
どこか拗ねるような鬼灯の表情が幼さを残していて、甘やかしてしまいたくなるのをぐっとこらえる。ここで負けを認めればこれから先も続くだろうこのおねだりに屈してしまうことになるのだ。
その羞恥に耐えられる筈もなく、心を鬼にして鬼灯に背を向ける。


「じゃあご飯が先ですね、用意します」
「メイド服は」
「着ません!」


ちくちくと刺すような視線を首筋に感じるが、それに反応を示すことなく台所に立った。
紐をたすきがけにして袂をしまい、あらかじめ作っておいた味噌汁をあたためる。慣れた手つきで香の物を切り分けていくなまえの背に、ふと心が安らぐぬくもりを感じた。次いで耳元をゆるりとくすぐる吐息に危うく包丁を取り落としそうになる。
それを後ろから伸びた手に支えられ、安堵の息をついたあとなまえを驚かせた犯人をむっと睨みあげた。


「気をつけてくださいよ」
「鬼灯さんのせいなのに……もう!」
「…しかしこうしていると、ここに越して来た最初の晩を思い出しますね」


あえかに触れる鬼灯の広く厚い胸板と囁くような言葉にう、と口ごもる。
目の縁を桜色に色づかせて思い起こすのはこの家に住まいを移すことになった日のこと。
あの日はこれから始まる2人きりの生活を想い、とにかく緊張していて。鬼灯との何気ない会話にも声を上ずらせ、戯れに触れあうときでさえ大げさにたじろいでしまったものだ。

昔心を込めて結んだおにぎりを料理と呼べるのなら別だが、初めてまともな料理をふるまうことにもなったので緊張しきっていたなまえは、普段は決してしない失敗もしてしまった。
指先に走る痛みにもれてしまったかすかな声を聞きつけて飛んできた鬼灯が、こうして背後から覆いかぶさるように手当てしてくれたのを覚えている。
鬼灯の指が労わるようになまえの手を這って。お互いの体温が溶けあいながら水に濡れる感覚が、ひどく心地よくて幸せなものに思えた。
今思い出しても心音があまやかに速度をあげてしまう。

この家でつむいだほろ苦くて甘い思い出になまえはふわりと顔をほころばせた。


「なまえはそそっかしい所もありますから、怪我には充分注意してください」
「はい…気をつけます」


言葉の節々に優しい声色を灯した鬼灯から言いつけられ、なまえは微笑みながらこっくりと頷いた。暫く見つめあい、和やかな空気が流れ込んだのをいい事と思ったのか、真摯な眼差しを寄せて鬼灯が続けた科白になまえは口元を引きつらせた。


「あとメイド服を着たくなったらいつでも言ってください」
「なりません!…と言うか鬼灯さんってこういう服が好きなんですか…?」
「いえ、特別好みという訳ではないですよ。なまえが着るから良いのです」
「……そ、そんなこと言っても着ませんからね!」


鬼灯から生み出された思いがけない言の葉に上手くほだされそうになる心を奮い立たせてそっぽを向く。そんななまえに手強いですね、なんて至極真面目な顔をして言ってのける鬼灯の夜色の虹彩がいとおしさをにじませたような光をはらんでいて、とくんと心臓が跳ねた。

彼女の胸の内を透かすように目を眇めた鬼灯は、頬に差した朱色をはぐらかして調理に徹し始めたなまえを優しく見守ったのだった。


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