「なまえちゃんなまえちゃん」 「はい?」 濃紺へと塗りつぶされた空、真上からレースのような優しい光で草木を照らす月。 1日の終わりに明日の薬の届け先を確認していた時だった。やわらかい声音で名前を呼ばれ振り返ると、ちょいちょい、と指の先を折って手招きをする白澤の姿があった。 そのまま店の奥に位置する台所へと歩いていく彼の後を追うと、紳士的に椅子を引いてなまえをそこに座らせた白澤が戸棚から出したのはお酒だった。 「いいのが手に入ったんだー、なまえちゃんと飲もうと思って」 「もう、明日も仕事なんですよ?」 「まぁまぁ、そう固いこと言わないでさ」 にこにこと朗らかに笑いかけられてしまえば断るに断れなくなるのは惚れた弱みというやつだろうか。 きゅっと糸のように細めて弧を描く目と優しい笑みを乗せる唇を向けられると、明日の仕事に支障が出るかも知れないとわかっているのについつい許してしまう。 なまえは困ったように微笑んで、グラスへと注がれるとろりとした琥珀色の液体を眺めた。 透かし彫りが施されたそれに瓶を傾けながら、ちらりとなまえを見やった白澤はどこかくすぐったそうに口を開く。 「僕ね、」 「何です?」 「なまえちゃんのそうやってしょうがないなぁって風に笑って、僕のわがままを許してくれるところ、好きだよ」 「な、何言ってるんですか急に…!」 「何となく言いたくなっただけー」 ふふ、と口の端から笑みをこぼしながらそんなことを言う白澤に、まだ一滴だって飲んでなどいないのに顔が熱くなって仕方ない。 白澤と恋仲になって随分経つけれど、こういうことを恥ずかしげもなくさらっと言ってしまえるところには慣れそうもない。 ほんのりと桜色に頬を染めるなまえを見つめる白澤の表情があまりにも幸せそうに蕩けているものだから、ますます気恥ずかしくなってしまう。 「白澤様ってよくそういうくさいこと言えますよね…!」 「ええ?思ったことを口に出しただけなんだけど…」 「私には出来そうもありません…」 火照りを帯びた両頬に手をあててわずかに俯くなまえから目を外し、手元のグラスに視線を落とした白澤はそうだなぁ、と首を傾げる。 「なまえちゃんとの一瞬一瞬を大切にしたいからね」 「ま、またそういうことを…!」 「あはは、ほら僕って散々遊んで来たでしょ?そんな風に思ったことなかったんだ。その時が楽しければいいかなって感じで、そりゃ遊びが前提の付き合いだったけど相手の娘のことも考えずにとっかえひっかえだったし…」 「………」 「でもね、そこになまえちゃんが現れたんだ」 テーブルの上を彷徨っていた瞳を持ち上げて、なまえをその虹彩に映し出した白澤はふわりと笑む。 なまえを視界に入れるだけでたまらなく胸が高鳴って、薬を調合するときも可愛い女の子と会話するときも、なまえの姿をちらちらと追ってしまう。 夜、眠りにつこうとまぶたを下ろすとその真っ暗な脳裏にぼんやりと思い浮かぶのは彼女の笑顔だったりして。花街に繰り出してもなまえのことが頭の隅をちらついて、碌に酒も女も楽しむことが出来なかった。 知らない心、知らない気持ち。 初めて感じる想いに戸惑って、なまえの顔すら碌に見られなかった頃もあったっけ、とひとり苦笑する。 万物に精通する神獣だからといって、すべての事柄にその知識が役立つ訳ではないのだと改めて思い知らされた。 「初めてちゃんと好きになったひとだから、大切にしたいんだよ」 「…そんなの、私もです」 「え、なまえちゃんも初恋?」 「えっそれはさすがに違いますけど…!」 なぁんだ、と期待していたのか乗り出した身を引いてどこか拗ねたように唇を尖らせる白澤にくすりと笑みがもれる。 他愛ないやり取りを交わすこの時間が、かけがえのないとても大切なものだと思っているのはなまえだけではないのだ。 それを知って、胸の奥にじわじわとあたたかいものが染み出していく。幸福とはこういうことを言うんだと、白澤と出会って初めて理解した。 白澤は酒に似ている気がした。 1度味を知ってしまえば、何度だってほしくなる。彼の隣はひどく心地よくて、傍を離れたくなくなる。白澤はそんな中毒性のようなものを持っているのだ。 何度でも飽きることなく好きだと、思えてしまう。 「なまえちゃん顔赤いね、飲みすぎた?」 「そうですか?そんなに飲んでないんですけど………、」 「……」 「…白澤様、わかってて言ってるでしょう」 どこか嬉しそうな、ゆるゆるとした笑みを浮かべる白澤に大体の察しがついた。 白澤はなまえが彼のことを考えていたから頬が赤くなった、ということをわかっていながら酒のせいだと指摘したのだ。 じとりと目を細めるなまえに白澤は眉尻を下げながら笑って、赤みの差した彼女の頬を両手で包み込む。 「ごめんごめん、嬉しくって」 「………」 「………ねぇ、なまえちゃん?」 「…何ですか」 「キスしたくなってきちゃった」 「っはい!?」 「していい?」 「なな何で、というかいっつも勝手にしてくるじゃないですか…!」 今日に限って律儀に訊ねてくる白澤に火傷しそうなほど熱くなる顔を逃がそうとしても、彼の手のひらに挟まれているからそれも叶わない。 少しずつその距離を縮めていく白澤の、その端麗なつくりをした唇にどうしても視線が滑ってしまう。とくとくと痛いほどに甘く跳ねる心臓に思わずぎゅっと目を瞑ったなまえに、白澤はやわく口角を沈ませる。 「だめ?」 「…駄目って言ったこと、ありますか?」 「……ない」 一拍置いてやんわりと重なった唇から、あまやかなアルコールの香りが柔らかい余韻を残していく。そうして軽くついばんで唇を離した白澤と、どちらからともなく微笑みあった。 |