*Pain

 夏休みが、すぐ目の前までやって来ている。……高校生活最後の、大切な夏が。
 外はこんなにも暑いというのに、私の心はこの間から、まるで冬のように凍えきってしまっている。
 図書室で課題を済ませた私は、ふと窓の外に目をやった。今頃、零一さんは部活で鬼になっているはずだ。コンクール前のこの時期は、指導する側もされる側も切羽詰まった緊張感の走る大事な時。依頼を受けて練習を見る時以外は、私も無闇に音楽室に行くことは避けている。──今は、零一さんに顔を合わせにくいから、ちょうどよかったのかもしれない。
 図書室は完全冷房の防音設備で、窓を開けて練習する音楽室の音は全く聴こえて来ない。それでも、何処か気になってしまうのは仕方のないこと。

「溜め息……。5回目」

 正面に座っていた珪くんが不意に呟く。私はピクリと反応して、上目遣いで珪くんの様子を窺った。

「さっきから、溜め息ばっかだな」
「ごめん……」
「何で、俺に謝るんだ?」

 フッと笑う珪くんから、慌てて視線を逸らす。だって、私は零一さんから逃げて珪くんの優しさに甘えてる。
 分かってるんだ、ホントは。自分がどれだけ甘いのか。──恋愛も、夢も。何でも手に入るなんて、そんな簡単じゃないことはちゃんと分かってる。
 でも。李々香さんの存在が、今の私には大きく立ちはだかる。零一さんの元・彼女……。過去のことなのに、2人を冷静な目で見ることが出来ない。自分がこんなに心が狭かったのかと、驚かされる。零一さんぐらい素敵な人に、彼女がいなかったはずはないのだ。初めてその中の1人に遭遇して、それだけで心乱されて……こんなんで、零一さんの彼女だって胸張って言えるの?

「──もう、帰るか?」
「えっ?」
「そんな顔してるんじゃ、勉強にも身が入らないだろ」

 参考書を片づけ始めた珪くんを止める権利なんて、私にはあるはずもなくて。

「気晴らしに公園でも寄ってくか?」
「うん、そうだね……」

 珪くん、ゴメンね? 何も訊かないで傍に居てくれるだけな貴方に、私はとても残酷なことをしている──。


 家に帰ると、珍しく両親が揃って迎えてくれた。──これは、多分、零一さんのお父さん経由で話が伝わったということだろう。さすがに、私にも予想のつくことだ。

「瑠宇。話がある」
「今は、考えたくない」
「気持ちは分からなくもない。だがきちんと話すのは今だと思うんだ。いいから、逃げないで座りなさい」

 母を見ると、静かな表情でただ目配せしただけだった。父に従え、その目はそう言っている。
 リビングのソファーに向かい合うなんて、まるで三者面談だ。家でこんな緊張感が走るだなんて、今までにはなかったこと。

「単刀直入に訊く。零一くんとのこと、本気なんだな?」
「っ!」

 いきなりそう来るとは思いも寄らず、焦ってしまった。私の顔には動揺がそのまま出てしまっていることだろう。

「恋愛と将来の進路を天秤に掛けろ、とは言わないが……瑠宇は少し冷静になりなさい」
「──え?」

予想外の言葉に思わず口をポカンと開けてしまう私を見て、父は楽しそうにしている。

「私が頭ごなしに反対するとでも思ったかい?」
「えっと、その……」
「李々香さんに言われたんだってね? しかも、かなーりキツイこと」
「っ!!」
「もぅ〜あまり瑠宇を苛めないでよね、カッちゃんたら。心配なくせにね〜親バカなんだからっ」
「ちょっ、比奈子さん!?」
「さっさと言えばいいじゃないの〜。“瑠宇のしたいようにすればいいんだよ”って」

 母の言葉に驚いて、呆然と口を開けて固まる私。お説教でも始まるのかと思えば、こんな展開……誰が予想出来たというのか。

「あ〜戸惑ってるわね。ふふふ、私たちをそこいらの頭固い連中と一緒にしちゃダメよ〜? 瑠宇が零一くんと一緒にいたいなら、それでいいと思うもの。少なくとも私は、夢のために愛を捨てるような女にはなって欲しくないしねっ」
「全く比奈子さんは……それ、母親としての台詞じゃないんじゃない?」
「そりゃそうよ。1人の女としての台詞ですもの!」

 文句ある〜? と言う母を、愛しそうに父が見つめる。あああ、コレは娘ほったらかしのパターンかもしれない。

「しょうがないなぁ〜。そういう比奈子さんだからこそ、愛してるんだよ。分かってるんだろ?」
「もうっ。カッちゃんたら……!」

 やっぱり、始まったか。しばらくイチャイチャラブラブタイムになるだろうと、溜め息混じりで大きく息を吐いた。その息に気づいたのか、ラブイチャな空気は一気に変化を見せる。早技のように、2人はすっかり両親の顔へと戻っていた。

「ま、そういうことで」

 コホンと零一さんのような咳払いをして、父は私に向き直る。

「自分に正直に生きなさい。いっぱい悩むだろうけど、最後は瑠宇の気持ちが大事なんだから」
「お父さん……」
「確かに、留学が全てじゃないさ。それは瑠宇の言う通りだって、僕も思うよ」
「うん」
「瑠宇ならやれる。フルートを、音楽を愛する気持ちさえ持ち続けていられれば、それと同時に1人の男性を愛することだって可能なはずだよ」

 父の言葉が、私の中にあったドロドロした想いを溶かす。
 私に足りないのは、きっと揺るぎない自信、なんだろう。自分らしくあるために、もっと、強くなるために、今の私に出来ることを見つめ直さなければならない時期にきてるんだと、今なら思えるのだ。


 そして、次の日曜日が来て。私は、李々香さんの泊まるホテルに向かっていた。
 直接対決? ううん、そんなんじゃない。ただ、1つだけ、訊いておきたいことがあったから。

「お〜っ! よく来たね、瑠宇!」

 大丈夫。今は、李々香さんを見ても、変な嫉妬心も出て来ない。感情的になってたあの時とは、違うはずだから。

「──李々香さん。私に、教えてくれませんか?」
「ん? 何を〜?」
「李々香さんが、零一さんと別れた理由です」
「っっ! いきなりそれか〜。可愛い顔して、言うときゃ言うね〜」
「顔は、関係ないと思うんですけど」

 苦笑する私に、李々香さんは座るよう促す。

「うん、そうだね。……瑠宇は、どう思った?」
「えっ?」
「それを尋ねるってことは、瑠宇もあたしと同じ立場に立ってるからなんだよな?」

 李々香さんが苦笑してる。確かに、私は李々香さんの答えに自分を重ねようとしてるのかもしれない。

「あたしはさぁ〜。瑠宇と違って、零一のことより夢の方が何倍も大事だったから……簡単に別れを告げられた。冷たいっちゃ〜冷たい女だよな、あたしも。まあ、零一の奴も別に取り乱しもしなかったから、かなりあっさりした別れだったんだけどさ」
「冷たくなんかないです」

 ポツリと呟くと、李々香さんの眉がピクリと動いくのが分かった。

「李々香さん、ホントは別れたくなかったんでしょ? 零一さんに負担かけたくなくて、自分から別れを切り出したんじゃないですか?」
「あぁぁ……分かった風な口訊いちゃって!」

 私の頭は、李々香さんにグシャグシャに撫で回された。

「李々香さ〜ん! 撫でるんならもっと優しくお願いしますっ」
「やかまし! 人の心、簡単に見抜きおって〜小娘の分際で!」

 今度は、ムギュッと抱きつかれてしまう。

「……ありがと。あたしキツイこと言ったのにね。瑠宇はいい子だな〜零一にはもったいね〜や」
「李々香さん!?」
「あたしが男なら嫁にもらうんだけどな〜」

 李々香さんは──サッパリした性格の裏に、やっぱり女らしさを隠し持ってる。この人は、やっぱり私にとっての“憧れの女性”なんだと思う。
 留学はしない。零一さんとの恋愛も諦めない。……その決意をもう一度告げ、その足で零一さんを呼び出すことにした。
 もう一つの決意を、伝えるために──。



 森林公園の入口で電話をして、10分もしないうちに零一さんは現れた。
 実は、教室以外でまともにあって話すのは一週間ぶりだったりするのだ。顔もあまり見れていなかったから、久しぶりに感じる。
 走って来たのか、零一さんは肩で息をしながらゆっくり私に近づいて来た。

「瑠宇!」

 ……え?
 あまりに突然抱き締められてしまい、私の思考は緊急停止してしまった。

「ど、したの? 零一さんらしくないよ?」
「俺らしくない、か。それは、どうだろうな?」

 苦笑しながら、零一さんは私の額にキスを落とす。

「この一週間、君とまともに話も出来ずに……しかも避けられていた。あげく、君は毎日のように葉月と行動している。冷静でなどいられるはずがないだろう」
「うっ……」

 珪くんのことは、ただでさえ敵視してるようだから。分かっていながら一緒にいた私も悪いんだとは分かってる。

「抱き締めたかったから、実行に移した。──俺も所詮、嫉妬深い一人の男にすぎない」
「零一さん……」

 やっと腕の力が抜けて、私たちは並木道を歩き始めた。髪が乱れてるところや、ホントに普段着のままだってところが。慌てて出て来たんだろうってことが分かって、不謹慎だけど嬉しかった。だって、それだけ私のことを想ってくれてるってことでしょう?

「それで、結論は出たのだな……?」

 零一さんが、前を向いたまま問いかけてきた。

「はい。私、留学はしません。もちろん零一さんと別れる気もないです!」
「……そうか。決意は変わらないかのだな」

 そう言う零一さんの顔に、安堵の色が見えた気がした。

「でも……私、しばらく零一さん禁止令を出すことにしたんですっ」
「……はっ!?」

 もう一つの決意。それは、受験までの間、浮かれた気持ちを抑えること。

「2人だけで会うの、控えませんか?」
「瑠宇、それは……」
「決めたの! 留学すること考えたら、大したことじゃないですもん。反対なんて、しませんよね?」
「ぐっ……」

 零一さんは何とも言えないような顔をしてる。

「あれ、もしかして、イヤですか?」
「いや、君が望むなら反対などしないさ」
「よかった! 絶対合格しますね。首席取ってプロへの近道にするんです!」

 そう。頑張るしかないのだから。今はそれだけが大事なこと!

「やれやれ。君が頑張っているのに駄々をこねる訳にはいかないからな……」
「何か言いました〜?」
「いや、何も?」

 零一さんは言いながら、突然私をグイッと引き寄せる。それに驚いて、私は目を見開いてしまった。

「そうだな。だったら、禁止令の前に」
「あっ……」

 零一さんの顔が、ゆっくり近づいて来て──。私たちは、長いキスを交わした。お互いの温もりを確かめるように。深く、深く。……何度も。



────Since it is the way which he decided, it does not get lost any longer.



(この胸の傷みを、私は忘れることはないでしょう)



2012,February,19. ; rewrite @ Ruri.Asaoka.


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