*カーテンコール;back stage
祭りの終わった──静かな夜。音楽室の窓辺に立ってグルリと室内を見回してみる。
ここで過ごした日々は、私にとって宝物だ。一生この胸に刻み込まれる、大切な想い出になる。
「どうかしたか?」
準備室から出てきた先生に声を掛けられた。
「うん……これでホントに最後だなぁ、って思って」
「ああ、そうだな。明日からは……」
先生はそのまま黙り込んで、淋しく微笑んだ。その笑顔が何だかとても切なくて、胸が苦しくなる感じすら覚えた。
もう一度音楽室を見回し、ゆっくりと歩き出す。ピアノ、指揮台、メトロノーム──。
「榊?」
「どうしてかなぁ? あまり淋しすぎて、切なくて。涙すら出てこないみたい」
この部屋全体に残っている想い出が、私の胸を締めつけてくる。
「榊……。なら、その瞳からこぼれているものは何だ?」
「えっ?」
先生に言われて初めて、頬を濡らしている涙に気づいた。既に、込み上げてきたモノは決壊していたようだ。
「ステージが終わってからはあの騒ぎだ。泣いている暇さえなかっただろう? 気が緩んでしまったようだな」
「先生……」
フワリと、先生の腕が私を優しく包み込む。
「今まで、よく頑張った。我が部のエースとして、いやそれ以上に、君らしさを失わずに自分の音楽を求め続けた。それは今後も変わることはないのだろうな」
「……先生」
「教師としての私が言えることは、これからもそのまま自分を信じて進みなさい、という一言だけだろうか」
また見せた、淋しい微笑み。キュッと胸を締めつけるような切なさを含んでいる。
「だが、今は一人の男に。氷室零一という、君を想っているただの男に戻って、言いたいことがある」
「先、生──?」
包み込まれていた腕に力が入り、ぎゅっと力強く抱きしめられる。
「今は“先生”ではない」
「えっ? あ、はいっ」
ドキドキ……至近距離の、先生の真剣な眼差しに動揺してしまった。
「──瑠宇」
「はい? ……って、えぇぇっ!?」
あまりに自然に呼ばれてしまい、一瞬気づくのが遅れたけれど……今、名前! 呼び捨て! 瑠宇、って!
「今まで、君に伝えていなかった一言がある」
腕の力が緩んで。先生の真剣な眼差しを、もう一度直視してしまう。
「私は──いや。俺は、君が好きだ」
「……っ!」
えぇっ!? 俺、って! 好きだ、って!! 完全に頭の中はパニック状態になる。
「正直“好き”というこの一言を伝える勇気がなかった。それに似たニュアンスを持ったことは言えても、はっきりと伝えることが出来なかったのは、俺が……教師だという壁を自分で越えられなかったからだ」
「あ……」
そういえば。幾度となく、先生とはお互いの気持ちを確認してきたと思っていた。けれど。大事に思う、とか離す気はない、とか──直接“好きだ”と言われたことって、今までなかったんだ。
言われるまでピンと来なかったけど、先生の私に対する言葉の裏にはそんな想いがあったことを、やっと理解する。
「まだ君の教師だという立場は変わらない。だが不覚にも、母や藤井たちのおかげで、その壁を壊してみようと思った」
「あっ、そうか。尽が言ってた……華枝さん、私たちの枷をとっぱらいたかったって」
「そういうことだ。母は、俺の気持ちなど全てお見通しだったわけだ」
先生が自分のことを“俺”って言ってる。それが、何か新鮮で。だけど、今までよりずっと身近に感じる。すごく、ドキドキしてる──。
「ん? どうかしたのか?」
「うん。先生、いつも自分のこと“私”って言ってるから、ちょっとビックリしちゃって」
「ああ、そうか。いつもは教師らしくしようと、そう話すように心がけていたからな。友人との会話ではたまにボロが出るのだが」
「ふふ。そーなんだ」
「聞き慣れないか?」
先生は、ちょっと心配そうに私を見下ろした。
「ううん! かえって、先生が身近に感じて嬉しいっ」
「そうか。ならいいのだが……だったらついでに、君も俺を先生と呼ぶのをどうにかしてくれないか?」
は、い……? 私の目が点になる。
「えぇっ!? だ、だって! 先生は先生だし、あの、えっと、ふぇ〜っ!!」
「……瑠宇」
また名前で呼んでるしっ! 私の心臓壊す気ですかっ!? これって、絶対、私にも名前で呼んで欲しいってことだよね?
「俺も、君を下の名前で呼ぶのにはまだ照れがある。だが、2人でいる時に“先生”と呼ばれると、何だか悪いことをしている気になってしまうのだ」
「う〜。それはそうかも、しれませんが……」
先生……じゃなくて、零一さん?
うわ〜っ! 頭で考えただけで恥ずかしいんですけど! これを口にしろ、と? 面と向かって言え、と?
「どうしても、駄目か? その、呼びづらいか?」
「えっと。あのっ」
覚悟、決めるのよ……私! ぎゅっと目を閉じて、先生に──零一さんに抱きつく。そして、耳元に口を運んだ。
「──零一さん」
「っっ!」
お互いに、恥ずかしさが込み上げているのが身体を通して伝わってくる。
零一さん(まだテレあり)の横顔が、真っ赤になっているのが分かった。呼んで欲しいって言ったの、自分なのにね。
「その……やはり、照れるものだな」
「です、ね」
ふふふ、と私もテレ笑いを浮かべながら。今度は、まっすぐに零一さんの胸に飛び込んでいく。
「もう一回、私も言いますね。……零一さん、大好きっ!」
「……なっ!」
またもや面食らった表情で、零一さんは再び呟く。
「全く──やはり、君には敵わないな……瑠宇」
零一さんの腕が、また私を優しく包み込む。お互いの視線が絡み合って、自然に目を閉じて。引き合うように、お互いの唇を重ね合わせる。熱くて。でも、触れ合う温もりは心地よくて。
零一さんの腕に力が入り、キスも深さを増していく。
「んっっ」
角度を変えて、更に深く口づけて。絡み合う吐息が、視線が、火傷しそうなくらい熱くて、そして激しくて。
「ふっ……」
息苦しさのあまり、思わず零一さんの胸を押し返してしまう。
「すまないっ……苦しかったか? つい止まらなくなって」
「私、こそ、ごめ……なさっ……。息の仕方忘れちゃってっ!」
「──は?」
だって、集中しすぎたら息が出来なくなってしまったのだ。それでなくても、経験値が足りないというのにっ。
そこで笑いを堪えてる零一さんに気づいて、キッと睨みつけた。こっちはそれどころじゃないというのに!
「笑いたかったら笑えばい〜じゃないっ。どうせまだ慣れてないんだもんっ! 仕方ないじゃないですか〜」
「いや、俺も悪かったのだ。君が相手だから、抑えがきかなくなるんだ」
えっと……それは、その……。
「止めなきゃ、どうなっちゃうんですか?」
恐る恐る、訊いてみる。
「……そうだな。試してみるか?」
「えっ!?」
ニヤリと妖しげな笑みを浮かべる零一さんから、思わず離れようとするが。すかさず、腕の中に閉じ込められてしまう。
「冗談だ。今は、まだな」
「そ、そうですか〜?」
今は──? ちょっと疑問の残る言葉だけれど。まずは、信じておいていいのだろうか?
「2人の時は、こうして名前で呼べばいいんですか?」
「ああ。学校では以前通りに頼むが、な」
「ふふ。何か、秘密増えちゃったみたい」
零一さんの胸に、勢いよく顔を埋めてみる。ああ、何か安心するかも。以前は、ただドキドキするだけで落ち着かなかったから。
「正直、覚悟を決めたら、どうとでもなるものだと悟った気がする」
「え〜?」
「怖いものがあるとすれば、それは君を失うことだけだ。前にも言ったかもしれないが」
それは、私も同じです。もう一度、どちらからともなくキスを求めて──。
貴方を、今までより近くに感じた。
そんな、幸せな夜。
────It is possible to become happy feelings because it is called only by calling the name.
(あなたが、大好き)
2011,August.26th. ; rewrite @ Ruri.Asaoka.