*聖し、この夜 midnight part

 部屋の中の空気が、凍りついている。色素の薄い先生の鋭い瞳が刺すようにこっちを凝視しているのを感じながらも、視線を合わせることが出来ない。
 自然に、私の腕は珪くんから離れていった。するする、力が抜けて、その場にへたりと座り込んでしまう。

「瑠宇……」

 そんな硬直状態の中、突然珪くんが立ち上がった。驚いて見上げたけれど視線は先生に向いていて、こちらからは表情が分からない。

「俺、行くから」
「えっ……!?」
「今日のこと、忘れていい」
「珪くんっ。な、何で!?」

 呼び止めて。そして、私は、何を言うつもりだというのだろうか。

「待ちなさい、葉月」

 すれ違う瞬間、今度は先生が珪くんを呼び止めた。

「これは俺の中の問題なんで、先生には関係ないですよ」
「関係がない訳がない。榊が絡んでいる時点で、な。それに君は何かを隠している。榊に対する君の態度は……」
「気になりますか?」

 フッ、と軽く笑って。挑発的な目線を向ける。

「先生程の大人でも」
「なっ……!」
「じゃあ。俺、行くんで」

 静かに閉まるドアが、やけにゆっくりに感じられる。今にも先生がこっちを向いて、何かを問い質してきそうで、躯がカタカタと小刻みに震え出す。
 どうしよう……。私、何であんなことを? 先生に見られてなかったとしても褒められた行為じゃないだろう。

「榊」

 震えが止まった代わりに、ビクン、と身体が反応する。……怒ってる? それとも呆れてる? 目を合わせることが出来ずに、俯いたままギュッと握り締めた両手に力が入った。

「君は、悪くない」

 ポツリ、と呟かれたその言葉の意味が分からず、ポカンと口を開ける。かなり開いていたお互いの距離はいつの間にか接近していて、肩から滑り落ちていたショールが先生によって再び優しく掛け直された。

「君と葉月の間には、私には知り得ない特別な何かがあるのだろう? 敢えて私がそのことに口を挟む権利はない」

 ズキン、と胸が痛む。突き放されたような気が、した。これが、自分でしたことの、報いだとでもいうのだろうか。

「……だが。だからと言って、私が簡単に君を手放すとでも思ったのか?」
「え──? 先、生?」

 先生の動きが、ゆっくりとスローモーションに、変わっていく。右手が伸びてきて、私の頬にそっと触れて。気づいたら、今までにないくらい、二人の距離は間近になっていた。

「私を、信じなさい。簡単に諦めめられるような想いなどでないことを、君にはきちんと知っておいて欲しい」

 吸い込まれるようなアイスブルーの瞳。まっすぐに、心の奥まで見透かされている気がしてくる。

「先生が好き……。この気持ちに嘘はないの」

 やっと私の口から出た言葉は何処か言い訳めいていて。それでも、私に向けられた瞳は変わらずに優しかった。
 もう一度、ゆっくりと先生が近づいてきて、額と額が合わされる。近い距離に、心臓が耐えられず早鐘を鳴らす。一秒、二秒──。確かに重なり合った唇が、音もなく離れていった。

「君は、私の生徒だ。それは変わらない事実だ。だが、今日だけは氷室零一という一人の男に戻って……榊瑠宇という一人の女性と、向き合いたい」

 先生の腕がグイッと私を引き寄せ、そのまま強く抱きしめられる。キスの瞬間に遠ざかっていた心臓の早鐘が、再び速度を増す。頭の中は、さっきのファーストキスだったんだ、なんて呑気に考える余裕があったようだけれど。

。。。。。

 理事長邸を出て、そのまま夜の学校に向かうことになった。私には、どうしても確かめたいことがあったから。
 ──あの教会が、鍵になってる気がした。何か思い出せるかもしれない、って思って。

「榊……。この教会が、葉月との思い出の場所だと?」
「そんな気が、したんです。すごく不確かなんだけど、でも、きっとそう……」

 私、泣いたんだね。あの子に会えなくなって。淋しくて、哀しくて。……大好きだった、初恋の男の子に。

「葉月は……君のことを覚えていたんだな。だが、なぜ言い出さなかったのだ? それこそ、入学してすぐの時に君が思い出していれば、今の君と私の関係も違っていたかもしれない」
「先、生?」
「すまない。これでは単なる僻みだな」

 私──酷いことしてる。大好きな人を、苦しめてる? でもそれでも、私には思い出さなければならない義務があるように思えたのだ。

「思い出せそうか?」
「……分からないです。中に入っても思い出せるかどうか、それすら不確かで」
「そうか。……中は、開かないようだな」

 ギシギシ。扉は、音を立てるだけで、隙間すら開かない。

「冷えてきたな……」

 先生のマフラーが白い息を吐く私の首に巻きつけられた。

「せ、先生が寒くなっちゃいますっ!」
「大丈夫だ。私はコートを着ている。君はコートを着ていても随分な薄着だろう? 素直に巻かれていることだ」

 暖かい──。先生の温もりが心に染みる。

「寒いと思っていたら……雪、だな」
「あ……」

 見上げると、空から舞い散る白い粉雪。先生の腕が、フワリと私を包み込む。どうしてだか、涙が溢れ出てきて、視界がぐにゃりと歪んでいった。

「どうして、そんなに優しいんですか? 私、どうしたらいいか、分からないのに」
「……優しい、か。なら、怒鳴った方がいいのか? 別れたいとでも言えば、君は納得するのか?」
「そんなことっ!! ……イヤ。絶対イヤっ!」

 ポロポロ涙が零れ落ちる。

「君が、そうやって泣くのが分かっていた。嘘でも言うつもりはなかったのだが……泣かせてしまったな、済まない」
「あ、誤らないでっ。私が悪いんです、バカなこと言うから。ごめんなさいっ」

 自己嫌悪。どうして私って、こうなんだろう。

「榊。上を向きなさい」
「えっ?」

 見上げると、先生の顔が至近距離。自然に閉じる瞳。
 すぐに、さっきとは違う長い口づけが──身体全体の熱を上げていく。ただ重ね合わせるだけのキスがこんなにも熱いだなんて、知らなかった。

「んっ……」

 息苦しさを感じ、うっすら瞳を開けると。やっと唇が離れていくのが分かった。それでも、まだ抱きしめられたまま……立っていることすら困難に思えてきた。回された腕が力強く、熱くて。

「言ったはずだ。……君を手放すつもりはない、と」

 修学旅行の最終日前夜。あの日の言葉が、蘇る。

「先生──」

 珪くんが初恋の男の子だとしても。今、この瞬間……そしてこの先、私が想いを捧げるのは先生だけだから。

「ごめんね、先生」

 今は、初恋のあの子を思い出して胸が痛むけど。いつか懐かしいと笑える日が来るよね? 教会の扉が開いたら……全て謎は解ける気がする。でも。例えあの子が珪くんであっても、そうでなくても。
 一番大事なヒトが誰かってことはもう変わることはないんだろう。

 こうして、雪は降り積もり。……聖なる夜は更けてゆく。



────Only you are still loved while holding the pained heart.

(今はただ、この優しい温もりに身を委ねたい)


2010,November.23rd. ; rewrite @ Ruri.Asaoka.

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