summer ball.
夏の暑い日。あと一勝で甲子園に行ける、そんな試合。煩く鳴くセミの声が集中を妨げる。
3-2 、9回裏ツーアウト満塁。
どこぞのスポーツ漫画みたいなギリギリな状況。
あと一球、あと一球。
手の震えを抑えて投げた球は、なんともあっけなく、振られた棒に当たって。
大きな孤を描いて遠くへ、遠くへ。
ぽとりと音を立てて落ちたそれとともに、俺たちの夏は、
終わった。
「はーーー、生き返る!」
水道から出た冷たい水を勢いよく顔にかけて急激に上がった体温を下げる。
この季節ほど水の有り難みを感じる季節はないと思う。そんな事を考えていた時、
「東堂先輩、また見学っすか」
いつの間にか横に立っていた自分より一回り大きな人影に、少し目を見開き、ため息をついて返す。
「…なんだ、岬かあ………。そーだよ、まあどーせ俺ら三年はすぐ引退だしさあ。もうお役御免かなーってね」
そいつの着ていた練習着はボロボロで、カバンに入れたままの自分のそれを思い返しては心臓が痛む。
「いい加減部活参加してくださいよ、あんたエースピッチャーでしょ」
真剣で曇りのない瞳の持ち主から投げつけられた、[エース]という肩書きに、ぴくりと体が揺れる
「…そーだね、エース、か…。………なーんかもういいや、全部終わっちゃった今、エースなんて
肩書き要らないよ。あんな大事な場面で簡単に打たれるような球投げるピッチャーなんて、エースとは言えないしね。そうだ、岬にあげよっか、エースの肩書き。」
へらへらと笑いながら心にもないことを告げると、あからさまに不機嫌になる岬の顔が目に留まる。
そんな顔しないでくれ、
俺だってこんなこと言いたくないのに。
「……ふざけんなよ、一回負けたくらいでふてくされてんじゃねえよ………俺は、先輩に投げてほしいんだ。」
眉を寄せつらそうな表情を浮かべる岬に罪悪感が押し寄せる。岬はなにも悪くない。こんなことを言った俺が悪いのに、どうしてそんな顔をするんだ。
どうしようも出来ない心痛を感じ、一歩踏み出してから、年下のくせに俺より少し上にある頭をぽん、と撫でる。
「……ごめんな」
小さな呟きは岬には聞こえたのだろうか、
確認するもなく立ち去るしかなくて。
「俺だって、投げたいよ」
真っ青な夏空に切実な願いを。
今年の春、新入部員が数名入ってきたその中で、一際身長のあった岬はやっぱり目立っていて。
俺もそいつに目を奪われた。
こいつはいい選手になる、なんの根拠もなく、そう思った。運命の出会いかも、そんなことまで考えたりもした。
俺と同じピッチャーを志望していた岬は、驚くほどに投げるのが下手くそで。
これで何故ピッチャーを志望したんだ、俺の目は間違っていたのか、そう疑うほどだった。
それでも
「東堂先輩、俺、先輩みたいな投手になりたいです」
真っ直ぐに俺をみて笑う岬を放っておけるわけなくて、部活が終わってから2人で特訓なんかもして。
どんどん上手くなっていく岬に追い抜かれないよう、俺も必死で。必死で。
少し、容量を超えてしまった。
「東堂、ちょっといいか?」
いつものように日陰で野球部の練習を眺めていると、俺の親友で、野球部部長の角屋が練習を抜け声をかけてくる。
「ん?どしたの角屋、部活抜けるなんて珍しいじゃんか。なんか大事な用?」
深刻そうな角屋の表情を見て、無意識に笑顔をつくって、告げられることはもう分かっているのに、わざとらしく聞いてみる。
「…次の試合から、岬をレギュラーにする。…監督とも話した。これ以上ピッチャーの場所を空けておくわけにもいかない。それが監督の判断だよ。」
分かっていたはずのその言葉。
覚悟なんてとうに出来ていた。
なのにうまく返答ができない。
「はは、そっか、いいんじゃないの?あいつ上手くなったしさ、俺にはもう、できないし」
震える声を抑えて必死に告げる。
こんなにも野球に未練があったなんて、自分でも少し驚く。
「……やっぱりお前、ダメだったのか…。……ごめんな」
投げかけられた優しい声に目が泳ぐ。
どうして角屋が謝るんだ、角屋はいつも俺を支えてくれて、いつでも味方になってくれて、あの試合のあと1番に慰めの声をかけてくれたのもお前だったろ?
感謝してもしきれない親友の謝罪の言葉が胸に刺さる。
「…そーだよ、ダメだった。もう、野球はできないんだ……。お前が謝ることなんかじゃない、逆に感謝しなきゃいけない。…今までありがとうな角屋。俺の分まで頑張ってな?」
無理に笑顔をつくって、それがばればれだってこともわかってて。
「ごめんね、角屋」
辛そうな角屋を見るとなにも言葉が出なくて、ただ謝るしか、できなくて。
「つぎの試合のレギュラーを発表する。」
部長の招集で部員全員がグラウンドの中央に集まる。どうやらレギュラー発表のようで、場には緊張が走る。
自分の名前を聞き逃さないようにと唾を飲み耳を澄ます他の部員とは裏腹に、俺は上の空で。
もし、ピッチャーに先輩が選ばれなかったら?それはもう、戻ってくる意味が、完全に消えてしまうのではないか。
そんな心配ばかりが浮かぶ。それでも俺は、先輩がエースの名を背負って、もう一度ピッチャーとして呼ばれることを信じていた。
それなのに。
「ピッチャー、岬。」
冷たく告げられたその言葉に耳を疑った。
今、なんて言った?
部員たちは半分が驚きの表情、もう半分は、やっぱり、という表情を浮かべていた。
ほぼ無理矢理にユニフォームを渡されてからも、しばらく思考がまわらなくて、信じられないという気持ちに意識が奪われていたうちにレギュラー発表は終了し、部活自体も終わりに近づいていた。
「角屋先輩、さっきの、俺がピッチャーって、どういうことですか?俺まだ一年だし、何よりうちのエースピッチャーは東堂先輩でしょう?なんで先輩じゃなくて、俺なんだ」
皆が解散し、部室へと戻る中、俺は1人その集団を抜け、ノートになにやら書いている部長のもとへと駆け寄る。
「…そのままの意味だよ、次の試合では、お前が投げろ。」
一度視線を寄越してからすぐにノートへと向き直り、冷静に、淡白に必要事項だけを告げられる。
なんで、なんでだよ、あんたは東堂先輩の親友だろ、あの人のことを1番わかっていて、1番あの人に投げてほしいのは部長、あんただろ?
疑問ばかりが浮かんで考えがまとまらない。なにから言っていいのかわからない。
平然と親友をレギュラーから外し、何事もなかったかのように話を進める部長に、ただ腹が立った。
「…まだ何かあるのか?東堂のことならもう部活には戻らない。お前も諦めて放っておいてやれ。」
その言葉を耳に入れた瞬間、頭の中のなにかがぷつんと切れて、目の前の敬うべきと教えられたはずの先輩に、なんの躊躇もなく掴みかかる。
浮かんだ疑問は全て飛んで、ただただ言葉が溢れ出した。
「なんでだよ?!!!??あんたは先輩の親友で、1番帰りを待ってあげなきゃいけない存在で、1番先輩を見放しちゃいけない存在だろ?!!!??」
「っ、」
掴みかかられたことではなく、他になにかつらいことがあるように、顔をしかめる角屋先輩に向かってたたみかけるように言葉を投げつける。
抑えなんてきかなかった。
「なんでそんなこと言えんだよ、なんで東堂先輩を使わないんだ、なんで俺なんだ!!!!」
早口で、大声で叫び散らしては荒れた息を整える。その一瞬の隙間に、部長の言葉が割って入る。
「……っ仕方ないだろ、東堂はもう、投げられないんだよ!!」
苦しそうな表情を浮かべたままの部長の言葉を、理解不能の言葉を、耳が受け付けなかった。意味がわからなくて、体が固まる。
先輩が、投げられない?なにを言ってるんだ、つい最近まで投げていたじゃないか。あんなにも速い球を。
「東堂は、この前の試合中に、指の筋を痛めたんだよ、」
筋?痛めた?わけがわからない、だって先輩は、最後まであんなに凛々しく、綺麗に、球を投げていたじゃないか。おかしいだろ、
「もう、投げたくても投げれないんだ、あいつは。」
苦しそうに漏らす先輩に目の前が真っ暗になる。信じられなかった。俺の憧れていた先輩が、遠くへ行ってしまうような錯覚に陥った。
「どうして、そんなになるまで止めなかったんですか」
「どうして、気づかなかったんだ」
次々と溢れる言葉を躊躇なく押し付けて、悪いのは部長じゃないと分かっていても止まらなかった。
「誰も、気づけなかったんだ。最後まで、あいつは、いつも通りで」
「痛いなんて、代わってほしいなんて、一言もいわなかった」
俯き肩を震わせる角屋先輩を見て、力が抜ける。なんだか分かってしまったような気がした。
あの人は最後まで、
エースを貫いたんだ。
いつもの場所。練習風景を眺めて。ただ一つ違うのは、俺の手の中に1枚の紙、退部届があること。角屋や監督は退部なんてしなくていいって言ってくれたけど、もう参加すら出来ない部活に籍を置き続けるのもなんだか気が引ける。
それにこれは、俺のけじめでも、決別でもあったんだ。
なんてかっこいいこと言ってみても、小学生からずっと続けて、人生を捧げる覚悟すらもあった野球への未練は、簡単には断ち切れなくて。
「…はー、まだ投げたかったなあ…」
誰にいうでもなくそう呟くと、
「投げればいいじゃないですか」
またいつの間にか側にいる岬。
こいつは気配を消す能力でも使えるのだろうか。それとも、俺が鈍いだけなのだろうか。
何度も何度も投げてほしいと言ってくる後輩の存在は、鬱陶しくもあり、支えでもあった。
こんな指の俺でも必要としてくれてるんだなあ、そう思ったから。
まあ、指のことを知ったらもう、必要となんてしてくれないだろうけど。
「なんーだ、また岬か。きちんと部活しなさいよー」
いつも通りにおちゃらけてみせても岬の表情は真剣で。これもいつも通りだ。なにも変わらない。
「もう一度、投げてくださいよ」
またか、それしか言わないんだなこいつは。
それでもやっぱり嬉しくて。同時に期待に応えられない自分がもどかしかった。
ボールを足元に転がす岬。
ああ、投げてこないってことはやっぱり、知っているのか。
知っているのにまだ投げろっていうのかよ…。なんて後輩だ。
そっとしゃがんではそのボールを掴もうとして、落とす。
指にピリッとした痛みが走った。現実を見せられた。これで岬も俺の指が使い物にならないと、知ってしまった。
「…ほらな、もう、ボールを握ることすらできねえんだ。」
もうこんな俺は必要じゃないのかな。
岬はどんな表情をしているのだろう、笑って励ますのか、がっかりするのか、無表情のままなのか。2番目が有力かなあ、
なんて思いながら、そっと笑顔を作って岬を見る。
でもつくられた笑顔はすぐに消えた。
「み、さき?」
そこには目を伏せぽろぽろと涙を流す岬がいて。
なんでこいつが泣いてるんだ。
投げられないのは俺で、お前はレギュラーを手に入れて
なにも悲しいことなんてないだろう?
なのに、
「せんぱい、せんぱい…」
子供みたいに泣く岬を見ていられなくて。俺のために泣いてくれる優しくてバカな後輩を、そっと抱きしめる。
「ごめん岬、試合、投げるんだろ?、がんばってな。俺はもう投げられないけど、応援行く。俺の代わりに、勝って来てくれよ」
泣きたいのはこっちなんだけどなあ、なんて考えながらも、
岬がかわりに泣いてくれて、よかったなあ。
そんなふうに思って。
夕暮れが校舎を照らす。
あのあと角屋が来て、号泣している岬をそのまま早退させた。
それから校舎の横で泣き止むのを待って、泣き止んだかと思えば無言が続いて。
「なあ、先輩」
やっと口を開いた岬に、「ん?」と首を傾けながらたずねる。
「先輩はもう投げれねえけど、俺が先輩のあとをついでさ」
「必ず、先輩を甲子園に連れて行くから。
追いついてみせるから。まっててください、そこで。」
俺のほうを見ずに、誰もいなくなったグラウンドを見つめ笑う岬に、もう出ないと思っていた涙がこぼれた。
「…はは、生意気。…楽しみにしてるわ、」
仕方ないからもう少しここで足踏みして待っててやってもいいかな、なんて。
今年は行けなかった夢の甲子園に、行こう。
今度はふたりで。みんなで。
fin.