嗅ぎ馴れた珈琲の薫りで目が覚める。
その薫りに誘われてリビングに顔を出せば、ゆったりと蓄えられた髭を顎にくっつけた物騒な男に出くわす。
「まぁた、お前さん曰く、イイ女と最高の夜を過ごしましたってか?」
「お前にはこの悦びは理解できねぇさ。だから妬いてんだろ、次元?」
口を開けば悪態。
周りも自分達も、酷く見慣れたいつもの光景だ。
だがそれでもダイニングテーブルには湯気の立つ朝食が並べられている。
次元は淹れたての珈琲をカップに注ぎ、ルパンはその朝食にありつく。
会話はない。
食器が触れ合う音と、珈琲を啜る音のみの空間。
それを気まずいと取るか、心地よいと取るかは自由だが。
どちらからともなく無言になって、気付けば傍らから離れていく。
仕事となれば、自他共に認める阿吽の呼吸。
だが仕事という建て前がなくなれば、極々自然にそこからいなくなる。
慣れはしたが、あまりいい気がしない。
そう言ったところで何も解決はしないのだが。
「じゃ、俺出掛けっから」
「そっか、」
いつ帰る?
それを訊こうと思っていたのに。
「今日はマリアちゃん家にお泊りだから、よろしっく」
「…… そう、か…精々ビンタ喰らわないよう気を付けな」
「はいはい、相変わらずおかん体質だねぇ次元ちゃん」
そんじゃ、いってきまーす。
陽気に手を振りながら、マリアとやらの女の家に出掛けて行った。
どことなくやるせなくなった次元は、思い立って洗い物をしようと食器の置かれたテーブルへ向かった。
マリアの事で上の空だったのだろう、食事は殆ど残されていた。
不定期的な仕事だから、不健康になりがちな食事を何とかバランスよく作った食事。
黙っているから伝わるはずのない事なのだが、せめてもう少し食べてもいいのに。
ゴミ箱に料理を捨て、食器を洗う。
カチャカチャと鳴る食器が触れ合う音と水の音だけが虚しく部屋に響いた。
無意識に次元の瞳は潤み、次第にそれは頬を伝いエプロンを濡らしていた。
――…
次の日の真夜中。
「たっだいまぁ〜」
ソファに寝転びマグナムをメンテナンスしていた次元の耳に、ドアを乱暴に開ける音が届けられた。
表情筋を弛緩させてルパンが帰ってきた。
顔中、いや、身体中にキスマークをくっ付けて。
しかも、きっちりと着込んでいったスーツを目一杯乱れさせて。
その時、次元の心臓は破れそうに脈打った。
恐らく、セックスを散々致してきたんだろう。
「よう、随分と道草を食ってきたんだな。何なら、二泊してくりゃよかったのに」
朝帰りを待ったまま冷めてしまった珈琲は、まだ冷蔵庫の中で眠っている。
味は大部落ちてしまっているだろう。
「冗談。淋しかったんじゃないの?ここにあるだけで酒瓶何本飲んだのよ」
軽口の叩き合いは見慣れ、聞き慣れたもんだ。
だがどうしてここまで呼吸が苦しくなる。
次元もルパンも、目を合わせることもない。
気まずいとか、そんなものではなく、それがいつの間にか二人の当たり前になっていた。
自分の中に渦巻く理解しがたい感情を押し殺すように、グラスに注がれたバーボンを煽った。
「減らず口はその辺にしときな。早く風呂でも入ってその顔拝めよ。相当なバカ面だぜ」
「ふん、風呂は沸いてんだろうな」
ジャケットを優雅に脱ぎ、タイを外す。
その一連の動作だけで、身体に回ったアルコールが急に沸騰し始めてしまうくらいだ。
「アホ、そこまで面倒見きれるか。自分で沸かせ」
「へいへい」
バスローブとバスタオルを片手で掴んで、ルパンは鼻歌交じりに風呂場へ向かった。
肌蹴たワイシャツの隙間から覗いたキスマークを忌々しく思う。
どうせなら、自分が付けた痕ならと思ってしまった。
(ルパン、俺を見て…)
決して音にしてはいけない言葉を、口の中で転がした。
マグナムは、それを黙って見つめていた。
――…
「薄情なもんだね〜、相棒が腹減って帰ってきてんのに飯も何もなしか」
「朝帰りが当たり前のお前のために飯を作るほど俺は義理堅くないんだよ」
ふわりと薫る香水の香り。
今まで知っていた彼が付けていた物とは違うそれに、少しだけ嫌な予感がした。
「知らねえ香水だな。女からの贈りモンか?」
「よく気が付くじゃん。そ、ソフィアちゃんから」
「昨日聞いた女の名前と違うんだが?」
またもや聞いたことのない女の名前に、またキツく胸を締めつけられた。
わしわしと頭をタオルで掻くその姿さえも、次元にとっては目の毒のようなものだというのに、ルパンは次元のその瞳に移すことさえしないのだ。
どうして俺じゃないんだって、必死にひた隠してきた想いが溢れ出しそうになるのを、必死に抑え付けた。
「俺様はまだ自由でいたいんだ。お前にとやかく言われるのは随分と心外だな」
「そうかよ…」
深く溜め息を吐いて、冷蔵庫から有り合わせで作った料理をルパンに差し出す。
「酷いねえ、あっためてもくれないのか?」
風呂上りで早速ジタンを吹かす彼は、自分の事など何とも思ってはいやしないのだと次元は確信した。
「興味のない女にまで手を出して侍らせて、そんな野郎にわざわざ飯出してやる野郎がどこにいんだ」
少し物言いがキツかったかとは思ったが、そんな事を気にする余裕など今の次元にはなかった。
ほんの、揶揄のつもりだった。
何を感じたのかルパンが表情を強張らせて次元の肩を掴み、ソファに力一杯押し付けた。
「そっちこそ、俺のこと一切分かってねえ鈍感野郎だ。いい加減にしねえと、二度と戻ってこれない所までお前を引き摺り下ろすぞ」
「何言って…「分かったら四の五の言わねえで、お前は黙って俺の言うことに従ってればいい」
まさか、こんな事になるなんて思ってなかった。
「そんな、言い方しなくて も…っ!」
口答えしようとした瞬間、頬に強い衝撃を受けた。
ルパンも同様、拳に痛みが走った。
「あ…」
まだ頬は赤みがない。
だがその内に赤黒く変色してしまうだろう。
それほど強く殴ってしまっただろうから。
「……… 分かった、もう、何も言わねえから…」
こんな事を言わせたかったんじゃない。
ほんの、警告のつもりだった。
「次元、待て…」
哀愁を背に負いながら自分から離れていく次元をただ見つめるしかできなかった。
まるで首輪で繋いでまで離れないように大切に飼っていた黒犬に、リードを食い千切って逃げられた気分だった。
残されたのは、空虚と虚無だった。
――…
「随分と手酷くやられたようだな、次元」
「うるせえや…」
頬に大きなガーゼを貼っていれば、嫌でも目に付いてしまうだろう。
そっと触れるだけでも痛みや熱を発するそこは、まるでそこに触れるなとで言われているようだ。
ルパンに付けられた傷痕。
それだけでも次元は少しだけ嬉しかった。
ひた隠した想いを知られずに、ちゃんとルパンを諦められる決心がついたのだから。
次元は虚無を抱えたまま酒場のカウンターに座っていた。
「なあ、お前この際だからさ、あいつのことはすっぱり割り切ってよ、俺と組まねえか?」
一人ごちていたところに、昔馴染みの男が入り込んできた。
別に嫌な感情は持っていない人間だったから、何も言わずに隣に座らせた。
俺と同じ酒を注文したそいつは、俺に向かってそう吐きかけた。
はっきり言って、もうあいつに対しての気持ちは踏ん切りがついていたから丁度いいと思った。
これでルパンの事をきっぱり忘れられるから。
次元は脳を空っぽにしてから答えた。
「ああ、それもいいかもな」
「決まりだな。じゃあ、今からお前は俺の物だ」
ずっとお前をあいつから奪いたかった。
そう言った彼の顔が近付いてくる。
嫌だった、彼以外の男が自分を占めることが。
だが、心は拒絶しても慣れれば何ともない。
ルパンが毎日違う女の香水の匂いを振りまくことに慣れたように。
相手の手が首にかかった。
そのまま首筋を撫でられる。
湧き出す感情全てを殺して目を閉じた。
それでも浮かんでくるのは、やはりルパンだった。
「節操ねえなあ。俺にフラれて即これか?」
「っ!」
今、一番聞きたくなかった声が響いた。
信じたくなかった。
でも、再度頬に感じた強い衝撃に、これは嘘でも何でもないんだと確信した。
「悪いが、こいつは俺の犬だ。犬は飼い主が飽きるまでずっと尻尾振ってりゃあいいんだ。行くぞ」
口内に広がる鉄に言葉が発せなかった。
そのまま次元は、見慣れすぎた赤い背中について行くしかなかった。
酒場を出た後、半ば無理矢理フィアットに乗せられた。
「自分勝手な野郎だ。テメエの都合さえ通りゃあ、人の都合なんざどうでもいいんだからな」
口内に広がっていた鉄は、途中で吐き捨てた。
「お前、あのまま俺が行かなかったら奴の相棒≠ノでもなるつもりだったんだろ?自分勝手はどっちだ」
相棒。
その関係を持っていいのは、お前だけだと決めている。
そう言えたら楽になるのか。
次元はぼんやりと考えていた。
「別に。俺は所詮お前さんの飼い犬だ。お前さんは、犬が勝手に主人から離れるのは許しちゃくれねえからな」
マルボロは、酒場で殴られた衝撃のせいで落としてきてしまったらしい。
マルボロでもあれば、喋る必要性をなくしてくれるのに。
「へえ…じゃあ、俺をよく知ってるお前が、あんな軽率極まりない行動を取ったのは、何かしらの理由があるとでも?」
ルパンが鼻で笑った。
「殴ったことなら謝ってやるよ」
殴られた両頬が痛む。
目頭が熱くなっていくのを、次元はまるで他人事のように感じていた。
「お前さんがリードを離しちゃくれないから、自分で食い千切ったまでだ。失敗したけどな」
「俺の特性の首輪を他のモンと比べてもらっちゃあ困るな。凶暴な犬を縛りつけるために随分と奮発したんだからよ」
ああ、結局、ルパンは自分をただの便利な弾除けとしか思っていないのだ。
なら、
「俺を犬として、道具としてしか見ないんなら、心なんか殺せばよかったじゃねえか」
「ああ、それもいいかもね。心さえ死ねば、お前は俺から逃げることもなくなるだろうし」
「そうだ、そうすれば いい。そしたら、お前が…… 」
「……次元?」
あ、胸が痛い。
それと頬も。
焼かれてるみたいだ。
「お前……、泣いてんのか?」
「ああ、 そうみてえだな」
言われて初めて気が付いた。
だから先ほどから太腿が冷たかったのか。
「何で泣いてる」
「さあな。やっと、お前さんを……忘れられる、と 思ったら…」
次元の唇から、絶え間のない嗚咽が漏れ始めた。
ルパンは心臓にナイフでも突き立てられたかのように痛む感覚を覚えた。
彼の涙を見たくない。
今の今まで、今この瞬間さえも彼を傷つけているのに。
「俺にも分かるように喋れ。お前のその涙には、何の意味がある」
ハンドルを握る手が震える。
その振動が声に表れていないことを祈った。
「ルパン… お前さんを、俺はどうやら、………愛しちまってる、らしい」
もう元の鞘には収まらない所まで来てしまっていることを、二人は悟っている。
だからこそ飛び出した本音なのかもしれない。
「こんなこと、イカれてる」
「そうか…なら、そんなお前を愛しちまった俺も、相当イカれてやがるな」
「……… だろうな、」
もう後は溺れるしかないようだ。
ルパンはフィアットのアクセルを緩めた。
次元の、相棒としての最後の時間をもう少しだけ堪能したかった。
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