貴族による貴族の社会。今で言う平安の世にソレは生まれた。四つの腕に四つの目を持ち、二つの口を持つ異形であり、その姿から鬼神の名を冠す者。後に呪いの王として後の世までその悪名を轟かせる。
「宿儺様」
女も子供も嬲り殺し、人肉を嗜み、闘争を好む鬼人。それがその男だった。
「どうした」
「孰酒にございます」
裏梅と呼ばれた男が粛々と朱漆塗りの二つの杯と白い瓶子を差し出す。だが、それは己の従者と酌み交わすための酒などではない。
「下がれ」
今宵は満月。空では落ちてきそうなほど大きく膨らんだ月が男を見下ろしている。
「気味の悪い月だ」
だが、男にとってそれはさほど不愉快なものではない。男は並べた二つの杯に酒を注いだ。
ーーーーーーーーーーーー
男の生まれは定かではない。それは男が認識していないというだけでなく、生まれを知る人間がいないという意味でもあった。男が殺したのか、殺されたのか、死んだのか。それすらも定かでない頃から男は一人であった。だが、生活には困らなかった。
「神よ」
男は生まれながらにして人とは違う姿形をなしていた。それは学の無い人間には恐怖であり、畏敬であり、男を神と紛うには十分すぎる理由であった。男は生きた神として、奉られていたのだ。だが、この頃の男はまだ鬼人ではなく、人の子だった。
「……」
いつものように自身の世話をしにくる人間。布で身を包んだその人物は男か女かも分からない。だが、何の問題もない。その人間は自分に話しかけてくることはないし、かく言う自分もその人間に対する言葉を持っていないのだ。そんな生活がただ続く。だが、ある時、その子供は何とも言えない虚無を感じた。それは後に飽きというものだと知るのだが、子供はその瞬間、強烈な心の静まりを感じたのだ。それからの子供の行動は早かった。
子供はまず自身の世話役を殺した。そして、外に出て遭遇した女を殺した。女を追ってきた子供を殺した。それに気付いた男を殺した。台盤所で料理をしていた女を殺した。そして見張りを殺し、別の家の者を殺した。そうして、村の者を全て殺した。子供の心は少しばかり満たされたが、虚無は消えなかった。
それに加え、空いた腹も鳴る。子供は何の目的も持たずに、ただ外に向かい、歩き出した。
腹が減った。何か無いか。
子供はただ歩いた。ただただ歩いた。それ以外、何かしようという気が無かったのだ。そうして、ただ歩き続け、気づけば己の着物が擦り切れ始めた頃、子供は穏やかに流れる渓流を見つけた。
「……」
両の手を水にさらせば、固まっていた血が少しずつ流れ落ち、穏やかな川に一本の線を作る。
「血濡れの子供だなんて珍しい」
「!」
突然、声が降ってきた。
「……」
上を見上げれば、石の上に虫のたれ衣を付けた市女傘の女が立っていた。だが、おかしい。まだ年端もいかない子供とはいえ、神とも称された子供はすでに気配を感じ取ることができたにも関わらず、女がいることに気が付かなかった。
「どうかした?」
「……」
女の動きに合わせて虫垂れが揺れる。すると布の隙間から雪のように白い肌が一瞬、見えた。顔を隠す、肌の白い女。女はきっと貴族なのだろう。気配に気付けなかったのは偶々だ。さっさと殺してしまおう。子供はそう考えた。
「お前にはまだ私は殺せないよ」
まるで、それが聞こえていたかのように女が言う。そして、気付けば女は自分の目の前にいた。
「お前、もう1人は喰ってしまったの?」
「……」
「話せないという訳でもないだろうに。次、私を不快にさせたらお前を殺してしまおうね」
優しく言い聞かせるように、それでいて本当にそうしてしまいそうな声色で女はそう言うと、前に垂れる布を手で避けた。それにより、女の顔が現れる。
「……」
女は醜女だった。いや、それは正確ではない。女は美しかった。ただ、当世における美人という価値観とは違うものであった。女の瞳も髪も濡れ鴉の色とは程遠く、顔付きや表情もまるでそこらの女とは違う。だが、子供は思った。これほど美しいものは見たことがないと。
「天女は……初めて見た」
子供は人には見えない物が見えた。だが、それでも女のような人間は見たことがない。久しく出していない掠れ声で四つの腕を持つ子供は目の前の女をそう称した。
「てん……ふふっ。はははっ!!お前は見る目があるね」
女が笑いに震えるたびに虫垂れが揺れる。馬鹿にしているのか。子供は無性に目の前の女を殺したくなった。だが、それよりも先に女が「殺すのはやめておこう」と言い放ち、子供は口を噤むに留めた。女は貴族にしてはやけに砕けた物言いだった。そして、女は突然問うた。
「お前、料理は出来る?」
子供が頷くと女は「ならこれ焼いて」と地面に横たわる鹿を指差した。
「美味しくね」
子供はなぜ自分が、と思ったが、目の前のふざけた女に隙は見えず、さらに言えば自分も腹は空いている。女を殺すのは食後でいい。そう思った。
「よしよし。よくやった。美味そうじゃない」
焼けた鹿の肉を女がひとつまみ口へと運ぶ。女は「ちょっと生臭いけど」と言うと、巨石の上に自分の座る小さな石を置いた。
だったら食うな。
子供はそう思ったが、この短い中でも優し気な口調とは違い、女が己の話に耳を傾けるような気性で無いことは悟っている。子供は同じように辺りから小さな石を取り、その場に置いた。
「んで、お前はどうしてここに?」
「……目的はない」
すると女は平然と布を避け、豪快に肉を食べ始めた。貴族の女にとって顔を見せるという行為は婚姻と同じ意味合いを持つという。それを知っていた子供の返答に間が開く。だが、女はそんな子供の反応に気を悪くはしていないようで、次々に鹿へと手を伸ばした。
「じゃあ名前は?」
「……無い」
「不便ね。今まではどう呼ばれてたの」
「リョウメンスクナ」
「あらら。鬼神の名を借りるなんて業の深いこと。まぁ、その造形じゃ仕方がないか」
女は平然と、淡々とそう言った。
「ではスクナと呼ぼう。呼ぶも呼ばれるも業の深さは同じようなものよ」
「呼ぶ必要はない」
今からお前を殺すのだから。立ち上がった子供に女は「ははっ」と笑った。
「そう威嚇するなよ。何も私はお前を取って喰いはしない」
「もう少しお前が美味そうになったら考えてもいい」
脅したのは自分だったはず。子供はそう思った。だが、今、脅されているのは他ならぬ自分である。
女の言う”食う”は食事ではない。だが、それと同じくらい、それは女にとっての楽しみであることに子供はすぐに気が付いた。膝に手をつき、にこやかに笑う女から己を食い尽くさんとばかりに溢れる殺気によって。
「さ、お前も食べなさい」
子供は俺が作った物だ、と思ったが、女の肉をかき込む速さのあまりにも速いこと。うかうかしてると食べ切られてしまう、と慌てて鹿の足を手に取った。
「ほら。いっぱい食べな。スクナ」
「……」
そうして一匹の鹿が全て骨になった頃、女は「さ、行こうか」と立ち上がった。
「……?」
「何を不思議な顔をしてるの。お前も来るんだよ。だって私の肉を食べたんだもの。働いて返してもらわなきゃね」
「……」
やっぱりこの女、殺すべきか。
「私は料理が苦手でね。できるのを探してたの」
子供の手が女の背中に伸びる。だが、女はまるで後ろにも目があるかのようにそれをひょいと避けると「ちょうどいいところにお前がいたというわけ」と何も無かったかのように話を続けた。
「さて、まずはお前に合う服がいるね。鴉に突かれたようなその布切れじゃ格好がつかない」
女はそう言うと子供の手を引いた。それは子供には初めての経験だった。
「さ、これでいい」
子供は女から服をもらった。それは袖が広く、4本の腕を隠すも使うも自在にできる服だった。
「……」
「あの布切れよりはマシでしょう」
そして食事を貰った。それは貢ぎものでは無かったし、作る過程は子供の仕事であったが、いつも女は子供に食糧を分け与えた。
「さ、いっぱい食べなさい」
そして学を貰った。
「なぜ俺にも食わせる」
「そうねぇ。そもそもお前はまず食事の意味から知るといい」
「なんだ」
「食事ってのは強いものにだけ許された行為ヨ。人が動物を喰らい、動物がさらに動物を喰らう。それはつまり相手の強さを食うことと同義であり、強者にのみ許された略奪行為。それを踏まえた上で、私がお前に食わせてやる理由は2つ。初めに言ったように私は料理が苦手で、お前には素質があるから」
強いとは奪うことである。
それは幾許か偏りがある学ではあったが、子供はよく女の言うことを聞いた。
「今の世は和歌を嗜むのがいいそうね。私はよめないがお前ならきっと上手くよめるでしょう。やってみなさいな」
「?」
ならまずその読み方とやらを教えろ。
女は時折、無茶振りもしたが、子供はそれにもよく応えた。
「ほら、スク。とっとと怪我治さないと置いていくよ」
「無茶を言うな」
子供の背中を押し、崖から突き落とした張本人である女が言う。
「スク、スク。今夜は魚にしよう」
「この焼いた肉はどうする」
「あなたが食べなさい。その前に魚を取ってきてね。早く。やり方は教えたでしょ」
「……」
女は唯我独尊であり、自分勝手であり、我儘であり、苛烈であり、そして強者であった。
女は幾分かの報酬と交換に様々なものを狩ることを生業としていた。呪いも、人も、獣も全て。女はあらゆるものの強者に属していた。術式も無い、呪力もない。だが、それでも女はただ闇雲に強かった。女は正しく”武”の化身だったのだ。
「なぜそれほどの力がある」
「人間じゃないからね」
子供は尋ねた。戦い方も、その術も。
「それがお前の術式。上手く使いなさい」
「術だけに頼っちゃダメだよ」
女は強いものが好きであり、そして闘争が何より好きだった。
「強者が弱者に付き従う必要はないよ、スク。私はそう思う。強いものは強いんだもの」
「お前は強くなる。きっとね。強く強く強くなる。それで生きなさい。それはきっと退屈させない。私がそうだもの」
強いものが好きで、強さを善とする。だが、女は寛容だった。
「弱者を食っても意味はない。食いがいがないもの」
「そうだろうか」
「そうなのよ」
そういうものか、と子供は思った。
「スク、スク。おいで。おいで」
女は自分は暑いのは苦手なのだと言った。そして日輪はもっと苦手だとも。そんな女は子供の4本の腕をいたく気に入っていた。なんでも、日除になるからとのことだった。そんな女よく子供を抱いた。
「氷を持ってきてくれるなんて気が利くじゃない。ほら、お前も一つ」
女は子供を膝に乗せるとどこから取ってきたやも知れぬ氷を砕き、手ずからやった。子供の服には血がべっとりとついていたが、女は気にしなかった。
「……」
「うまい?」
うまいも何も味があるわけもない。だが、子供は一度頷いた。女の手は死人のように冷たかった。
「お前はいい子ね」
「……」
そんな女の手は子供にとって心地のいいものだった。
「スク」
ある夜のこと、女が子供を呼んだ。
「なんだ」
「酒の準備をしてくれる?」
「月見か」
「満月だもの」
女は月が好きだった。その日の月はいつもより大きく、女の背で聳えている。子供は女が何処かに行ってしまうような気がした。
「……月の使者でも呼ぶ気か」
「ふふっ、こんな夜を邪魔する使者なら殺してしまうよ」
「そんなことよりよく知っていたね」女は感心したように首を傾げると「ほら、酒」と催促をした。
「自分のも持っておいで」
「……」
子供はこの日、初めて酒の味を知った。
「苦い」
「すぐ慣れる」
そうして幾日、幾月、幾年が過ぎた頃。女は突然、子供を捨てた。この頃には子供ももう小さな子供とはいえない歳となっていた。
「さ、スク。私達はもうお別れよ。これ以上いると私はきっとお前を殺してしまう」
「何故だ」
女はそれに答えなかった。だが、膝を折り、子供を見上げて言った。
「宿儺。私の宿儺。その両腕で全てを蹂躙しなさい。全てを倒し、その全ての上に立ちなさい。お前の生きる術はそれしかない」
次に会った時、女は血に濡れていた。
「スク」
だが、そんなことを感じさせないほど女はいつものように、昔のように青年になった子供を呼んだ。
「無様だ」
「そうね」
「なぜ、お前が人なんぞにしてやられた」
「酒好きだから」
「鬼を狩るには酒ということか」
酒に毒を混ぜたという話を思い出す。それは女が聞かせたものだった。
「鬼だなんて無礼ね」
「鬼女も天女も同じようなものと教えたのはお前だろう」
青年は地面に横たわり、泥に被った女の体を抱えた。
「そんなこと教えた覚えはない」
「いや。俺はお前から数多を教わった」
「そう」
「だが一つだけ違っていた」
「なぁに」
「”弱者を食うことに意味はない”」
「そうね」
「では弱者にしてやられたお前はどうなる?」
女は答えない。
「弱者か?いや、お前は弱者などではない。ただの塵芥などではない。ただの人間なんぞにやらせてなるものか。俺が許すものか。謀りでお前を屠ろうとしたもの共が強者となるものか」
「お前、まるで……」
四つの腕が女の背に回る。
「お前は強い。お前は強かった。有象無象になどくれてなるものか」
女の声はもう耳に入らない。青年は女の体を抱き、そして、心の臓に手を乗せた。
「お前を喰らうのは俺でなくてはならない。その逆も然り」
「そうか」
女はゆっくりと目を閉じる。
「感謝しろ女」
「まだ死ぬと決まっていない私を殺そうだなんて。勝手ね」
「お前から教わったことだ」
「いいえ、お前はずっとそうなのよ」
「強情だな」
女は泥に塗れた今も昔と同じだった。人を人とも思わず、非も認めず、傲慢で高潔な天の人。
「スク。私のスク。今日の月は?」
「満月だ」
「そうなの。じゃあ酒を持ってきてくれる?」
「ああ、ああ。いくらでもやるとも。先に黄泉で待っていろ。後で持っていってやる」
「急がなくていい。私は気が長いもの」
「ケヒッ」っと笑った青年の手が深々と女の胸に突き刺さる。
「それじゃあ私は殺せない。首を落としなさい。よく狙いを定めて」
「ああ。任せておけ。任せておけ」
青年は最後に一言、「母よ」と女を呼んだ。
prev next
back