月は落ちかけ、暗い空の反対側では薄らと雲が白くなっている。あとしばらくもすれば世間が起き始めるだろう時間帯。昼に生活をする人々は当然寝入っているような時間だ。
夜に活動することが多い私にはそう珍しいことじゃ無いとはいえ、数日かけた任務終わりともなれば少なからず疲れは溜まっているわけで。重たい足は進みが悪い。
「ふ…ぁ」
欠伸が漏れる。いつもなら手で隠すところではあるが、今はそれすらも億劫で、誰もいないのを良いことに大口を開けたまま、目の前に現れた背の高いマンションへと足を踏み入れる。そして、私はコツコツコツコツとやけに小気味いい音を響かせるエントランスを抜け、ロケーションが良いからという理由で選んだ最上階へと向かった。
「場所は…っと」
そして、同じような扉に視線を彷徨わせながらなんとなくここだったようなという勘を頼りに1番奥にある部屋の扉を開ける。瞬間、ふわっとここ特有の匂いが鼻を掠め、白昼夢のように朧げな存在になっていたこの場所がしっかりと記憶の中で形取られた。
「いえ…家か…」
久しぶりの帰宅だったように思う。今回は何日だったか。まぁ、いつもと大して変わらないぐらいだろう。何週間か一月か。時には何ヶ月ぶりかにもなる事を考えるとまだ短い。そんな頻度で帰ってくるものだから、室内に私物は多くなく、内装すらも新鮮味を感じてしまう。
考えてみればサイドキックがゼイキンタイサクだとかで作った事務所か、ホテルの方が過ごす時間の方が長いのだから、仕方がないと言ってもいいぐらいじゃないか。そんな場所を家と呼べるのかは不明だが、最終的に帰る場所という意味ではやはりここは家だった。
チャリ
しばらく探した家の鍵を入室してすぐに放る。また失くすよとどこからか声が聞こえるような気がするが、家の中にあるのなら失くしたとはいわないのでよしとする。それから靴を脱ぎ捨てて、傘を立てかける。
軽くなった足で廊下を歩き、マントを外す。布が地面に落ちた音を聞いてから次は首元へ。両手を後ろに回し、ボタンを外せば今度はチャイナドレスが廊下に落ちた。そうして脱ぎ落としていけば丁度、下着姿の頃には洗面所へと辿り着くのだ。
シャーーー
そして次にシャワーを浴びる。そこで汗やら敵の血やらの汚れを落としながら体を念入りにチェック。戦闘直後は痛みに気付き難いからといつからかするようになった昔からの癖だ。
そうしてある程度さっぱりしたところで風呂を出て、洗面台に置いてあった下着と律儀に畳んであったパジャマ用のチャイナ服を着て、タオルで頭を掻きながら次はキッチンへと向かう。
電気は最低限だけ。せっかくの夜明けなのだ。必要以上に明かりをつける必要はない。
「んあー、どこだっけねぇ」
それから異常に多い収納棚を順に開け、目当てのものを探す。いくつ目かの棚を開けた時、お行儀よく並ぶ瓶が目に入った。
どれにしようか。
悩んだ末に1番前に置いていた瓶を手に取る。ラベルを見れば数週間前に買っておいておいた”鬼酔”だった。
チャポン、傾ければ間抜けな音がして、疲れた喉に酒が流れ落ちる。鬼を酔わせはしても殺しはしないという名目のこの酒は睡眠前に丁度いいまろやかな味だった。
「ん、美味しい」
一口、二口。何度かそれを傾けて、また暗い廊下へ。ちゃぷちゃぷと動くたびに酒が揺れ、今度は少し速度を落として歩いた。
そうして一つの部屋の前に辿り着く。キッチンの光がほのかにさすそこを体分だけ開ければ、光が暗闇の中で膨らむベットを指した。
「……」
光の線を辿るように歩き、ベッドのそばへ。少しだけ布団を捲れば、そこには薄ら口を開け、気持ちよさそうにホークス。いや、けーごが眠っていた。
「間抜けヅラね」
規則正しく上下する体は完全に寝入っているらしい。彼は市民に安心を与える昼の人。この時間なら当たり前だ。そんなことを思いながら見下ろしていると、視線を感じたのかけーごの口元がむにゃむにゃと動いた。それについ笑ってしまう。
それでも彼の目はぴったりと閉じられたままで、私はついに小さく「ふっ」と笑った。どう見ても微細な音も拾う個性とは思えない。
「無警戒」
目元に指を伸ばし、薄っすらある隈を指でなぞる。よく見れば前に見た時よりも羽が減っているような気がした。
「……」
疲れているのはお互い様らしい。すぅーすぅーと息の抜ける唇へと指を動かして、形を変えるようにふにふにと触れる。それでも彼は起きない。無意識にも悪戯を甘んじて受ける様子がなんだか面白くて、今度は一つキスを落とした。
「ああ、」
そうして思い出す。この家の匂い。これは彼の匂いだ。そうだった。一つ疑問が解消されたような気がして床にどかりと腰を落とす。そして、すぅーという声を聞きながらベットにもたれかかり、焼酎を傾けた。それが何度目か喉に流れ落ちた時、背後から掠れた声が自分を呼んだ。
「……ねこちゃん…?」
「…ん?」
今、私を呼ぶ人は私以外には1人しかいない。起こしてしまったかと振り向き、ベッドに肘をつき、彼を覗き込む。
「帰ってきてくれたんですか……?よかった、ぶじです?」
上を向いていた彼はゆっくりと声に従うように寝返りを打つと、私の方に顔を向け、そして嬉しそうな、蕩けたような顔で笑った。
いつものような覇気はなく、頬は力なんて入っていないようにへにゃへにゃと緩んでいる。目覚めが良くて、私よりも早起きな彼には珍しい姿。これじゃあまるで小鳥みたい。そう思いながら頬に手を添えると、彼はすり、とじゃれつくように顔を寄せた。
「無事だよ」
そっちもね、生きている証である呼吸が手のひらに当たる。まだまだ彼は微睡の中にいて、ゆっくりとした呼吸だった。
「うわきしとらん?」
「してない。まだね」
「ハハ…でもいつでもここ、おれんとこかえってきていいけん」
「あれ。もしかしてすると思われてる?」
ほんの冗談のつもりだったのに。思っているより私は信頼されていないらしい。だが、そう考えてふとあることに気がついた。
「……」
「帰ってきたの?」じゃなくて「帰ってきてくれたの?」と彼は言った。それはまるで私が彼に与えているような言い方だった。それにホークスの表情に不安は見えない。
奉仕に近い愛をくれる彼はその逆には慣れていない。私が与えるものは全て不確かなものだとでも思っているのだろう。だから私を縛って、私が欲しいくせにそうしない。
「謙虚だネ」
尽くされるのは嫌いじゃない。ただ、私からのものが通じていないのはなんだか気に食わない。それを伝えるつもりで腰を持ち上げ、額同士をコツンと合わせた。
「一途だよ、私」
「うれしいです」
彼がへにゃりと笑う。
伝わったのかは分からない。私は愛を伝えることが得意じゃないから。ただ、一つだけ確実に言えることがある。私がどこにいてもいつか帰ってくる理由。それは風呂が広いからとか、眺めがいいからじゃない。ただ一つ。不安そうな目で「一緒に住もう」と言った目の前の鳥のため。ただ、それだけなのだ。
「いいよって言っちゃったからね」
根無草で良いや、と思っていた自分がどこかに帰ってこようと努力するなんて。それは言葉は違えど彼と似たものであると思う。なんだか不思議だ。そう思いながら彼の首元に顔を寄せる。ふわりと香る匂いはやはりこの家と同じだった。それは私がいない間も彼がここに帰ってきているという証。
「君の匂いのする場所が家だなんてさ、私も大概…」
君がそれで喜ぶなら、帰ってきてもいい。それで、君が安心するなら。口には出さずに彼の太陽のような髪に指を通す。最後に「おやすみ」と言うと、彼の細まっていた目がゆっくりと閉じられた。
ーーーーーーーーーー
ホークスside
意識がゆっくりと浮かび上がる。それと同時に、自分のとは違う低い温もりを隣から感じた。
「おかえり」
丸まった華奢な背中に向けて小さく呟く。口馴染みのない言葉は少し気恥ずかしい。
いつか俺が「一緒に住みません?」と聞いた時、彼女は少しの間も置かずに「いいよ」と言った。それも最速の男が驚く即決っぷりで。
こっちに来る時は大抵、俺の家か事務所に寝泊まりしていたし、断られることは無いとは思っていた。でも、そんな提案をしたのは彼女が初だ。そして多分、最後。正直、羽を一枚忍ばせて良いかと提案した時よりも緊張した。ちなみに、その時の即答の拒否は今回の緊張の一因でもあるが、今思えば、そっちの提案はアウトかセーフで言えばギリギリアウトだったかもしれない。
「(…なしてか名前ちゃんの事となるとタガがね。嫌われんようにせんと)」
ヨイショ、と枕元に手を伸ばして、まだ鳴るまでしばらくあるアラームを先に切る。そのまま窓側で眠る彼女に軽く覆いかぶさって背後から両腕と翼で包んだ。
「……」
自分の腕の中に彼女がいる。それが俺を心底安心させ、この状況が現実だと知らしめてくれる。欲を言えば顔が見たいが、枕に埋められていて見ることは叶わない。でも、多分、彼女は起きている。どういう場所で生きてきたのか警戒心が野生動物並の彼女は、近くに動くものがいると勝手に眠りが浅くなるのだとか。個性でも無くそれが出来るのはいまだに信じがたいが、確かに彼女は覚醒と眠りの間で堂々と構えていた。
ただし警戒にはランクがあるようで、眠ったふりをする時もあれば、こうして目を開けず、声も出さない時もある。
その基準はよく分からないが、少なくとも今は分かる。彼女が起きないのは俺を襲う必要も俺に襲われる心配も無いからで、眠くて億劫なのが優っているから。安心していると解釈すれば嬉しいことだが、立場によれば信頼にも挑発にもなるそれはどこまでも傍若無人な彼女らしい。
「……んん」
「ん?寝苦しい?」
名前ちゃんが唸りながら寝返りを打つ。それからもぞもぞと場所を探すように動いて最後は俺の胸元に顔を埋めた。途端、じわじわと腹の底からごちゃ混ぜの何かが湧き上がる。きっと、良い感情だが、苦しい。一度息を吐くが、到底治まりそうもない。仕方なく、起きている彼女を起こさないよう少し腕に力を入れてみる。すぐに苦しさが軽くなって、しまいには馴染むみたいにそれが全身に広がって消えていった。
「(いつか俺、名前ちゃんに殺されるんやなかやろか)」
そんな事を考えながらきっと朝方帰ってきたのだろう、眠っていたにしては冷たい体にしっかり布団をかけなおす。
一緒に住むことになっても変わったことはそんなになかった。「いらっしゃい」から「おかえり」になったぐらい。
彼女は日本各地で活動しているし、海外にも行くから会える頻度はそもそも低い。今だってそれは変わらない。それでも俺は満足しているし、それだけで良かった。「いいよ」の返事一つで俺は世界のどこにいても彼女がいつかはここに帰ってくるという安心感を得たし、元々は彼女にせめてもの居場所を作ってあげたいっていう俺の勝手な押し付けから始まった事なんだから。
「…好いとーよ」
普段ならあざといとか、うるさいとか言われて小突かれてるところだが、よっぽど眠いらしい名前ちゃんは何も言わなかった。それに少し物足りなさを感じながらも額にキスをして、手に指を絡める。名残惜しいが、そろそろ起きなければいけない時間だ。そうして渋々、最後にもう一度腕に力を込めて俺は静かに体を起こした。
それから軽くシャワーを浴びて、コーヒーとトーストを一枚食べる。歯磨きをして髪を整えてからコスチュームに腕を通せばもう、ヒーローホークスの出来上がり。
「いってくるけん」
最後にもう一度ベッドに腰掛ける。布団に潜る彼女の出ている頭を何度か撫でてから奥で光の漏れるカーテンをしっかりと締めれば家を出る準備は終わり。最後の仕上げに名前ちゃんの頭にキスをして、半ば玄関と化した窓辺に向かって歩いた。
「おやすみ、名前ちゃん」
そこで家を出る前の挨拶をする。返ってはこないだろうけど。そう思っているともぞもぞとベッドが動いて、ダラリと白い手がそこから落ちた。それが一度だけひらりと振られる。多分、今の俺の顔はホークスの顔じゃない。にやける頬を誰にも見られてないのを良いことにそれを放ったまま彼女に向かって小さく手を振りかえした。見えていないだろうけど。
「行ってきます」
ーーーーーーーーー
「う”―――ん」
ベットの中で伸びをする。どれくらい眠っていたのか。体の節々が音を立てた。布団から顔を出せば、カーテンの下から昼を過ぎた、夕方に近い日の光が入る。
寝過ぎたなぁ。
ゆっくりと立ち上がり、キッチンへ。コーヒーメーカーのスイッチを押せば、私の好きな配分のコーヒーが瞬時に出来上がる。それを啜りながら背の高い椅子に腰を下ろして、カウンターに着く。ここで何を食べるか考えるのだ。ラーメン、あり。いや、一食目だしホットケーキも…。ぐうぐうと鳴る腹の虫が満足するものをネットで検索していく。
そういえば、まだあれを見てない。どこだっけ。顔を上げて辺りを見回す。そして、カウンターの真ん中でそれを見つけた。一冊のメモ帳だ。それを引き寄せ、最後のページへ。シャンプー、鶏肉、と買い物リストが続くその下、流れるような字で私宛のメッセージが書いてあった。
『良い夢見れました?俺は見れましたよ。君のおかげで今日は頑張れそうです。好いとーよ!』
「ふふっ、マメだなぁほんと」
あざといし、と溢しながらその字を撫でる。あの鳥はいつもこうして一言残していくのだ。求愛行動みたいなものかなと放っているけど、毎度毎度、飽きないもんだなぁと感心してしまう。いつもは返さないけど、今日は気分が良い。スマホの画面をスイッと指を動かしてサイドキックのアイコンを押す。続けて今頃、バタバタと空を飛んでいるだろうホークスへメッセージを送った。
『私も好きだよ。しばらく休み取ったから明日どっか行こ』
明日は彼も休みだったはずだ。返信待ちの暇を潰すためにテレビを付けると丁度、ホークスが映っていた。気軽に見られるお昼の情報系番組らしく明るいインタビュアーが『流石です!速すぎる確保でしたね』なんて言いながら質問をしている。
『いやー、それが俺の仕事なんで』
ホークスがスマホをチラリと見た。こっちに音は来ていないからきっと羽で拾ったのだろう。何かあった時のために彼は通知を切らないから。
『えっ!』
『どうしました?』
『ハハハー、ちょっと嬉しい事があって。『へぇー、お聞きして…』じゃァ、そういう事なんで!次の任務行ってきまーす』あっ、ホークス!』
バチコーンとカメラに向かってウインクするホークスが背中を向けて飛び立った瞬間、私のスマホが今しがたテレビに映っていた彼からの着信を告げた。
「んー?」
『んー?じゃないですー!なん可愛らしかことしとると?あっ、おはようございます』
「おはよう。嬉しくなかった?」
『まっさか!明日なんて言わずに今日の夜もデート!デート行きましょ!何食べたいか決めとって』
「はいはい」
『デートですからね!』
どっか行こうと言ったからかデートを強調するホークス。こういうところの押しは強いのになぁ。
「うん、デート。綺麗にして待ってるね」
『ぐっ、う、なんそれ…。愛らしかと。それに君はいつも綺麗ばい』
「ありがとう。じゃあね」
『もうちょっと反応してほしいんですけど!」
ブチっと電話を切って、コーヒーをもう一口飲む。
「さてと、何着て行こうかな」
喜ぶだろうか。喜ぶだろうな。ぱたぱたと羽を動かして笑うホークスの顔が思い浮かぶ。
「私も大概…よね」
ふぅ、と溜息だかなんだか分からない息を吐き、私はいつぶりかも分からないクローゼットの中身を記憶の奥底から引っ張り出した。
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