警戒していた名前ちゃんから何とか抱き上げる許可を貰って、小さな体を持ち上げる。軽過ぎる体は触れるだけで折れそうで、肌には血色がない。飛び立つのに合わせ、日の光から隠すように彼女を抱き寄せた。


「う”っ」


 子供特有の匂いよりも先に、鼻につくような悪臭に声が漏れる。そうだった。いつもと違うことを完全に忘れてた。


「……帰ったらお風呂入りましょうか」


「ん」


 名前ちゃんはそんな俺よりも空が気になるらしく、番傘の影の下で、ずっと上を見上げていた。


「空、いいな。私も飛べたら…もっと」


 彼女が何かを羨むなんてところはあまり見たことがない。それは彼女が成長の過程で諦めてしまったものなのか、羨む必要が無くなったのかは分からないけど、続く筈だった言葉を考えるに今の彼女はそのどちらでも無いんだろう。だって、彼女は強くともまだ産まれて数年の子供なんだから。


「遠回りしようか」


「……」


 名前ちゃんは何も言わずに、日の当たらない俺の腕の中から、陽に満ちた地面を歩く人々を眺めていた。


   ーーーーーーーーーー


「ホークス!見つかったら連絡してって言うたっちゃんねぇ!!?」


「連れてきた方が速いかと」


「こっちも準備あるけん言うとってくれんと!!」


「お、オヤツまで用意してくれたんですか」


 事務所に戻れば、彼女のためにか机の上には大量の食べ物とお菓子が準備されていた。だが、記憶のない名前ちゃんは警戒してますと言う感じで傘を斜めに構えて、サイドキック達の動きに注意を向けている。


「ひとまずお風呂に入れてきます」


「えっ!」


 サイドキックがドン引きした目で俺を見る。俺はすぐさまその疑惑の目に両手を振った。


「ロリコンとかじゃないんで!名前ちゃんとはいえ、幾らなんでもこんな小ちゃな子に邪な気持ち持ったりせん!!髪ば洗うんば手伝うだけばい!」


「……まぁ、あの様子じゃ誰かの手は借りれそうにないですしね」


 そうでしょうそうでしょうと動けば殺すぞぐらいの目つきで周りを見ている名前ちゃんを抱き上げて、すぐさま事務所のシャワールームへと向かう。もちろん、邪な気持ちなどないが、こんなに小さくて可愛い彼女を甘やかさない手は無いだろう。うきうきとジャケットを脱ぐ俺を彼女はなんだコイツとでも言いたげな顔で見ていた。


「はーい、目瞑っててくださいね」


 もこもこと泡だらけになった髪にシャワーをかける。名前ちゃんの肩が一度びくりと跳ねるが、すぐに慣れたのか流れるお湯をじっと眺めていた。


「熱くない?」


「……あったかい。これなに」


「お湯です。いつもお風呂はどうしてるの?」


「雨とか水道」


「そっか」


 ギシギシと指通りの悪い髪から流れた水が痩せ細り、骨張った背中を流れ落ちる。


「トリートメントもしようね」


「とりーとめんと」


 白い液体を手に取って髪に揉みこむ。一応着ているタンクトップから覗く肌には切り傷や青痣が幾つもあった。


「……後で手当てしましょ」


「お前はなんだ」


 床で水が跳ねる。その隙間で彼女が呟いた。背中を向けているから顔は見えない。


「貴方の……いや、なんですかね。よく分からん」


 過去の彼女に友達なんて言ってしまっていいのか。それがどう影響するかが分からないものだから下手な事は言えない。それにそもそも俺自身が彼女との関係性をよく分かっていない。だから、よく分からない以外の答え方がなかった。


「こういう時は嘘でもいいから何か言え。しんよーされないぞ」


「貴方にはあんまり嘘つきたくないんで」


「”わたしには“か」


「ええ」


 彼女の頭にシャワーをかける。水はすっかり透明さを取り戻していた。 


「スッキリしました?」


「すっきり…?多分」


「風邪引く前に髪乾かしましょうね」


 ぽたぽたと髪から落ちる水に片目を閉じる名前ちゃん。異性だから、や肌が見えることに対する羞恥心は薄いらしい。今の彼女にも引き継がれているそれは育った環境ゆえなのかもしれない。タオルでわしゃわしゃと頭を拭く。名前ちゃんは不思議そうな顔をしてタオルを見つめた。


「どうしたの?」


「……柔らかい」


「気に入った?」


「ん」


 サイドキックが買ってきた服を彼女に渡し、ついでに手当を済ませる。いつ戻ってもいいようにシャツは大人サイズだ。小さな体だから、肩からワンピースみたいになったTシャツがずり落ちている。途端、さっきまで無かった余裕がむくむく湧き上がって俺は衝動のまま彼女を抱きしめた。


「ぐっっ、かわいい」


「じゃま」


「写真撮ってもいいです?」


「勝手にすれば」


 返事を聞いた瞬間、取り出したスマホで連写する。風邪を引かないよう少しの間だけ撮影会をして、彼女を抱き上げ、ソファのある部屋へと向かった。
  

「髪乾かすね」


 綿のように軽い重みを膝に乗せて彼女の髪にドライヤーの風を当てる。手持ち無沙汰だろう彼女にお菓子を渡すと、彼女は一度匂いを嗅いだあと、もそもそとそれを食べ始めた。


「風……」


「そ、凄いでしょ」


「ん」


 徐々にいつものような髪が戻ってくる。俺は彼女の髪に指を通したまま、尋ねた。


「名前ちゃん、このままずっとここに居ませんか?」


「……」


 彼女の姿は個性が解けるまでの間だけのものだ。でもこのままここで生きていけば彼女は怪我することもお腹を空かせることもない。俺はなんだか泣きたいような気持ちになって、そんな出来もしない嘘を彼女に聞いた。


「居てもいいぞ」


 振り向いた名前ちゃんが涙の出てない俺の頬を小さな手で撫でた。その手に自分のを重ねる。


「君を幸せにできるかは分かんないケド」


 さっきの彼女の言葉を思い出して、誤魔化すようにそう言って笑う。自分で幸せを掴むと言った彼女はいつもならきっと何言ってんだと笑い飛ばしてるはずだ。


「そんなのきたいしてない。それにお前はさっき私をシアワセにしたヨ。…迎えにきてくれてありがとう。嬉しかった」


「フロ?もな」と小さな名前ちゃんが笑う。


「もう泣くな」


「俺、泣いてます?涙出てないと思うんですけど」


「泣いてる。泣き虫か?」


「違いますー」


 名前ちゃんが赤い目をフッと一瞬緩めた、ような気がした。すぐに彼女の小さな手が俺の目を覆って、確認することはできなかった。


「私は幸せだよ」


 徐々に膝にかかる重みが彼女の存在を大きくする。ゆっくりと彼女の手が離れ、光が目に戻ってきた時、目の前の彼女はいつもと同じ彼女だった。


「……名前ちゃん」


「ん?」


「いま、幸せ?」


 ぱちぱちと不思議そうな顔で瞬きする名前ちゃん。


「迎えに来てくれたからね」


「そっか」


 彼女の背中に頭を寄せる。泥でも血でも垢の匂いでも無い。いつもの彼女の匂いだった。



 
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