梅雨。梅雨前線が両サイドから挟まれ、何やかんやすることによって生まれる現象。仄暗い雲が空を覆っていて、強くもない雨が降っている時期。湿気で髪がまとまらなかったり、どんよりしていたり、突然の雨に予定が潰れたり。人によってはにっくき季節だ。
だが、名前はそんな季節が意外なことに好きだった。降ったり止んだり、ころころ変わる空模様は飽きないし、雨に濡れる景色は美しい。それに多少傘から出ても肌が焼けることがない。
「(今日も降ってる)」
ポツポツと職員室の窓をノックする雨音に耳を傾ける。するとコツンと頭に軽い衝撃が当たった。
「聞いてんのか」
伸びた腕を辿り、見下ろす先には相澤が名前を睨みつけている。
「あー、毎日良い睡眠取れてるよ」
「だろうよ。そんな心配はしてない。ちゃんと聞け。お前また寝ながら部屋の壁に穴開けたろ。何度目だ?」
「3?」
「5だ。そろそろセメントスに給料払わないといけなくなるぞ」
はて。そんなにだったか。当然、数えているわけもないが、名前は度々、部屋の修理に来てくれているセメントスにお礼を兼ね、手を挙げた。
「良いですよ。個性の鍛錬だと思ってるんで」
「ハァー。今日の分はまた後で直しに行く。お前ももうちょっと気をつけろ」
「寝てるんだもん。そんなの無理よ」
そう言って体を戻す相澤と机の間に体を乗り出す名前。相澤は空気を読み、体を少し引いた。白い指がすっと伸び、机の端の小さな箱に伸びる。それはいつか名前が相澤にあげたものであり、中には同じく彼女が入れたチョコレートが入っている。
「お前のおかげで物が増えたよ」
「いいでしょ。少しは人間らしくなって」
「余計なお世話だ。もう帰っていいぞ」
ひょい。そう表せるほど簡単に浮き上がった体が相澤によって横にずらされる。
「猫ちゃんみたいね、名前さん」
「にゃー」
ミッドナイトの手招きに鳴いた名前を相澤がしっしっと手で払う。
「ひどいなぁ」
「猫可愛がりだね」
書類仕事をしていたオールマイトの言葉に名前が猫?と首を傾げると「相澤くん、猫好きなのよ」とミッドナイトが耳打った。
「変な事吹き込まないでください。ほら、早く帰れ」
「はいはい。じゃあね、せんせ」
「さようなら、だ」
小言を言う相澤の目線を背中に受けながら職員室を出る。梅雨は人を早く家に帰す効果でもあるのか、誰もいない廊下は窓に当たる雨の音しかしない。コツコツコツコツ。決まったリズムはない。名前はふと、窓の外に目をむける。薄暗い外の景色に一つ、鮮やかな色があった。
ーーーーーーーー
足元で雨が地面に当たり、跳ね返る。鏡のような水溜りは灰色の空だけを写している。
「なにしてんの?」
その鏡を割る足が一つ。
「……」
「君に聞いてるんだけど」
「……」
俯く子供。名前はそうか、と納得したような声を出した。
「あー、君あれか。最近、ここらで死んだっていう……」
「勝手に殺す!……な」
子供は傘を少し持ち上げて話しかけてくる名前を睨みつけた。だが、言葉は尻すぼみ消えていく。表情のない整った顔立ちは子供には慣れないものだった。
「地縛霊かと思ったよ。じゃなきゃこんなとこに突っ立ってない」
雄英は広大なため、近隣といえど、家や店とは幾分か距離がある。それに、今は寮生活。子供がいることは珍しい。
「……ここで待ってろって言われたから」
「そ、」
その前にはきっと、「あ」が付いただろうなと思うようなカラッとした返事。その返事に子供は呆気に取られた。てっきり自分を叱りにきたのだと思ったのだ。
「……怒ってないのか」
「怒る?」
「ここで待ってて……」
「私、ただの生徒だしなぁ。居ていいのかは知らない。好きにすればいいんじゃない?」
ま、少なくともヒーロー達は怒らないだろうね。名前の言葉に子供は傘を下げ、ほっと一息ついた。
「ビビってた?」
子供の顔にカッと赤みがさす。
「終わったんならとっとと帰れよ!」
「いつまで待つの?」
「話聞け!!」
「いつまで待つの?」
一言一句違えない質問に子供ながらもすぐに答えないとずっと続くだろうことを察する。子供は不服そうに視線をずらし、ぽつりとつぶやいた。
「……分かんないけど、お母さんが来るまで」
「ふーん」
いつまでかは分からない。言葉にすると、形のなかった不安が明確になる。この仄暗い中、自分はいつまで待つのだろう。母親は来てくれるのだろうか。雨が強くなったらどうしよう。子供は俯いた。すると、その視界に見慣れない形の傘が現れた。雨はまだ降っている筈なのに、それはしっかりと閉じられている
「何してんの。まだ降ってるけど」
「傘壊れちゃった。開かないから雨宿りさせてよ」
「ッ勝手にすれば」
正直少し、ほっとした。だが、そんなことは言いたくない。子供は小さなプライドから、顔を背けて悪態をついた。ほんの少しだけ自分の折れた傘を持ち上げて。
「失礼」
軽く膝を曲げた名前が見える。いい奴なのかな。子供がそう思いはじめた時、閉じられた傘が大きく左右に動いた。
「……」
ポタポタと子供の服から水が垂れる。
「私は名前。そっちは?」
「誰が言うかッ!」
―――数日後――――
今日の天気は雨。
「まーた居る」
門の前にはあの子供がいた。
「……」
「ダンマリ?」
「お前とは喋らない」
名前は傘を閉じて、しゃがむ。子供は顔を背けた。
「いつもそんな感じ?」
「……」
「怒ってばっかじゃ変なところに皺がつくよ」
「フンッ」
「ほら増えた」
眉間に寄せられた皺を指で押す。子供は「やめろ!」と声を荒げて指を払った。バシッという音と空中に浮いたままの名前の手。
「あっ、」
やり過ぎた。子供のバツの悪そうな顔に名前はふっと笑うと、何も気にしてないように指を子供の頬に刺した。
「どうせ皺作るならここにしなよ」
「……早く離せよ」
数時間が経ち、日がすっかり落ちた頃、一台の車が門の前に停まった。
「来た!」
「…」
外からは見えない仕様の車。子供が入れるだけの隙間が開く。名前は乗り込もうとした子供の手を掴んだ。
「ねぇ、君。やっぱり名前教えてくれる?」
「やだね!」
窓が少し開く。母親だろう女の目元だけが見えた。
「……ありがとうございます」
「いーえ」
にこっと笑う名前を横目に子供は嬉しそうに車に乗り込む。
「じゃーな!」
中からはこちらが見えている。名前は閉まった扉に向かってひらひらと手を振った。
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