夜の兎 | ナノ


▼ 15

 
 鍋パから早1ヶ月と少し。エリちゃんのために与えられた一室で、相澤はハァ…とため息をついた。


「お姉さんそこ!そこ!」


「お、お宝ゲット」


 エリちゃんが名前の胡座をかく脚の間からテレビ画面を指さす。中ではデファルメされたエリちゃんがぴょんぴょんと障害物を避けていた。インターンも無く、暇だと言う名前をエリちゃんの訓練に付き合え、と呼び出したのが1時間ほど前。まだ訓練が始まる気配はない。


「そろそろやるか」


 名前の膝の上に座るエリちゃんには笑顔が溢れ、近頃訓練への苦手意識のある彼女には丁度いい息抜きにはなっているようだが、訓練しなければ出来るものもいつまで経っても出来るようにはならない。相澤はコーヒータイムと称して、黙認していた2人の遊びを中断させるため、席を立った。


「お前な、本当に訓練手伝う気あんのか」


「エリちゃんのは一瞬の判断力が重要な個性だからね。危機的状況を乗り越えつつ、判断力をっ、これで鍛えっ、あぁー!」


「最もらしく言うな。負けてんじゃねぇか」


 画面にgame overの文字が浮かぶ。ゴロンと後ろに倒れ込んだ名前に合わせて、上に乗っていたエリちゃんも一緒に倒れ込んだ。


「あぁーっ!」


「エリちゃん、真似しなくていいよ」


「次何しようか?」


「訓練な」


 「はいはい」と気の抜けた返事をした名前がエリちゃんの脇下に手を入れる。だが、名前は膝からエリちゃんを降ろすことなく、そのまま手を離してしまった。


「?」


 訓練だと言われた途端にさっきまでの笑顔を消し、不安そうな顔を浮かべたエリちゃん。相澤から習得が遅れていると聞いていた名前はすぐにその理由に気が付いた。 

 恐怖心、個性への苦手意識。自分が呼ばれたのもせめて少しでもそれが緩和できればいい、との相澤の考えからなのだろう。膝に乗せたまま机を引き寄せる。その机上には枯れた花が一輪、花瓶に挿さっていた。


「さ、やろっか」


「…名前、そこどけ」


 そう指示をする相澤だが、むしろエリちゃんの方が離れないよう、机の下で小さく名前の制服の裾を握っているのは分かっていた。だが、離れなければ名前が危ない。己の個性でエリちゃんの個性を消せるとはいえ、怪我しない保証も無ければ、もし彼女が暴走すれば名前の存在が消える事にもなりかねない。


「いいよ、このままで」


「……」


 じっと相澤は名前の顔を見つめる。だが、名前の表情に恐怖はない。むしろ、少し口角を上げて、何か面白い物でも見るようにエリちゃんの頭に顎を乗せた。離れる様子など見えない。


「ハァ…分かったよ」


「センセ、ありがとう。さ、お姉さんに見せて」


「…ウン」


 促され、おずおずと手を伸ばすエリちゃん。だが、花に変化はない。名前は首を傾げた。


「ん?」


「あー、まだ上手く発動出来ないんだ」


 ま、そうだろうな。どうしても無意識の内に考えてしまう恐怖心は簡単には払拭できるものじゃない。名前は驚くこともなく、伸びたツノにちょんちょんと触れた。


「ふむふむ」


「ごめんなさい…」


 来てくれたのに。お手伝いしてくれてるのに。そんな罪悪感からエリちゃんが俯く。名前は不思議そうな顔でそれを覗き込んだ。


「なんで謝るの?」


「出来ないから…」


「出来るようになりたい?」


「うん」


「どうして?」


「そしたら、皆に怪我させたりしないから…」


「ふーん、分かった」


「ちょっと待っててね」と言い残して名前が立ち上がる。そして、入れ替わるようにオールマイトが入った。


「あれ名前少女もう帰るの?」


「すぐ戻ってくるね」


   ―――それからしばらくーーー


 とんっとんっ


 時間にして数十分。足で蹴ったようなノックの音に気付いた相澤はゆっくりと腰を上げ、扉を開いた。先ほど出て行った名前がお盆を手に立っている。やはりと言うべきか、片足は蹴ったように上がっていて、相澤は「横着すんな」と言いながら、名前の手にした盆を受け取った。そこにはナイフと歪に切られたリンゴが置いてあった。


「(コイツが切ったのか……)」


 大根ですら包丁を使わずに叩き割り、料理のさしすせそも気にせずに調味料を入れるような夜野が。相澤は一度、夜食を作るから、と教員寮のキッチンを貸し出した過去を思い出し、顔には出さずとも内心で驚いた。


「りんご」


 ジュルっと涎を垂らし、りんごを見上げるエリちゃん。相澤は「はい」と机に置くと、小さなフォークを横に添えた。


「どう?上手く出来た?」


「発動できる時もあるんだが…」


 枯れていた花は少しだけ色を取り戻していた。だが、それからはエリちゃんの個性発動に対する遠慮が見える。


「成功体験が必要かもしれません」


 相澤はオールマイトと名前にだけ聞こえるように小さな声でそう言った。それにハイ、と名案があるように手を挙げた名前。


「任せて」


「え」


 皿のそばに置いていたナイフを取った名前は2人が何をするのか、と思う間もなくくるりと一回転してそれを片手に持つと、勢いよく自身の手の甲に向けて勢いよく振り下ろした。ドンッと机が音を立てて揺れる。相澤もオールマイトもエリちゃんも、ただその光景をポカンと眺めていた。


「は」


 表情を変えず、手の甲から半身が出たナイフの柄を掴んでいる名前。呻き声すら上げない名前にオールマイトも相澤もドッキリか?なんて思いはじめた時、それを否定するかのようにじわじわと机を溢れた血が侵食し始めた。


「な!早く手当を!」


「へーき」


 片手でオールマイトを制し、ナイフを引き抜く。ぽたぽたと垂れる血に少しずつそれを理解したエリちゃんの顔から色が消えた。


「お、お姉さん…?」


「出来るよ」


「えっ…?」


 エリちゃんの手は震えている。


「治してくれる?」


「私ッ、私は」


「大丈夫、エリちゃんなら出来る。怖くない、怖くない」


 励ますように、宥めるように血のついてない方の手でエリちゃんの頭を撫でる。


「私に見せて」


 エリちゃんは治崎の元で治療と称して行われていた行為の痛みを思い出した。お姉さんを治さなきゃ。きっと、痛いはずだから。恐る恐る名前の手に自分のを重ねる。


「ッ」


 一瞬、ピクッと動いた名前だったが、その傷はみるみるうちに塞がり、跡形もなく消えた。さっと手のひらを返し、エリちゃんの前に無傷の手を広げる名前。途端、エリちゃんの目に涙が溢れた。


「出来たじゃん」


「うー」


「ありがとー」


 名前の膝に飛びつき、力の限り抱きしめる腕に力を込める。エリちゃんの涙を片手で拭った名前はぽんぽん、と頭を撫でた。


「もう,自分に痛い事しないで」


「約束は出来ないけど、分かったよ」


 オールマイトはちらりと相澤を見た。相澤は名前から目を逸らさずに、じっとその手を見ていた。


「洗ってくるね」


 立ち上がった名前が盆とナイフを手に外へと出ていく。


「エリちゃんを頼みます」


「分かった」


 相澤もそれを追うようにゆっくりと席を立った。


 ──────────────


「アイツ…どこ行った」


 廊下に出るも既にその姿は無い。相澤は辺りを歩いて回った。きっとあの強情で、どこまでも自分勝手な生徒はリカバリーガールのところへ素直に行こうとはしないだろう。それに、エリちゃんに黙って寮に戻るとも思えない。

 見当はつかないがとりあえず廊下の端まで歩く。それでも姿は見えない。外へと繋がる非常口の近くまで差し掛かった時、壁の向こうに床すれすれにかかる紺青の髪が見えた。


「名前」


 近付き、顔を出す。物置前のスペースに背中を預け、スカートであることも気にせず、片膝を立てたまま座り込む少女の姿がそこにあった。


「大丈夫か」


「うん」


 顔を上げた名前の表情はいつも通り。整った顔立ちをそのままに、何を考えているかも分からない表情を浮かべている。だが、何かが違う。俯き気味なことで、髪が顔を隠そうとしているからだろうか。それだけがいつもと違った。

 相澤は前に掛かる前髪に指を伸ばし、それを少しだけ退けた。よく見ればその額にはうっすらと汗が滲んでいる。すぐに視線を下に向け、手を取った。エリちゃんに見せていた手のひらに怪我はない。だが、その裏。甲には刺し傷を中心に、周囲に向かってひび割れのような亀裂が伸びていた。


「大丈夫じゃないだろう」


「これで成功体験できたね」


 なんて事ないように。いつもと同じ軽口を言う頭を小突く。


「ああ。次からは発動に怖がる事はないだろうよ。だからってあんな無茶するんじゃない。もっと自分を大切にしろ」


「ヒーローならな」


 「乗れ」と背中を向ける。名前は不思議そうに首を傾げた。


「脚は無事だけど」


「お前はたまに信用できん。逃げられても困るからな。持ってくほうが確実だろ」


「えー」


 ぐいっと腕を引けば、名前は何の抵抗もなく背中に乗る。そして、怪我なんて無かったかのように相澤の背中で「猫じゃ無いんだから」と足をぷらぷらさせながら笑った。


「あんまり動くな。落ちても知らんぞ」


「センセーが掴んどいてくれなきゃ」


 「にしてもこれ痛いね。なんか肉むりやり捏ねられたみたい」と言う呑気な声に相澤は「ハァ…」とため息をついた。

 

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