夜の兎 | ナノ


▼ 9

  
 もう一歩、と足を踏み出した名前が突然、下を向いたままピタリと動きを止めた。そして一向に動かない。完全に戦闘開始の雰囲気だったものだから、モニター前の生徒たちと轟は首を傾げる。


「(……?)」


 さっきまで感じていた圧が消えた。


「…………凍った地面に対応してないんだよね。この靴」


 顔を上げた名前の眉は困ったように下げられている。さっきまでの彼女の雰囲気が嘘のように消え、轟は少し困惑した。


「そうか」


「滑るなぁ」


 力を込めると転けそうだ。怪力を有する彼女にとって滑らない程度の弱い力を保つというのはなかなか難しい。それに数多ある戦の経験でも氷の上で戦ったことはない。スケートのように移動できたら楽しそうだけど。どうしたものか、と考え込む。


「そっか」


 少しの力がダメなら、むしろ強くしてしまえばいいんじゃないか。名前は頭脳を使うことはあっても、最終的に面倒なことは頭突きで解決するタイプだった。


「さ、もう大丈夫」


 その場で一度足踏みをすればガシャンッと音がして、氷を裂いた足がしっかりと固定された。続きを、と顔を上げたその瞬間、轟が手を払い、氷の壁が迫る。狭い通路いっぱいを進む氷は逃げ道を奪い、そして攻撃の隙を与えない。透明な氷の向こうで歪む名前がゆっくりと肩から傘を下ろした。


「意外とせっかちだね」


「すぐに終わらせるって言ったろ」


 終わらせないよ、名前は口には出さずに目の前の壁に向かって傘をフルスイングした。傘の先が当たったと同時に粉々になる氷。


「やっぱりパワー系か」


「ザツすぎ」


 砕けた氷は武器にもなる。跳ね返った氷を防ぐ轟に名前は少しがっかりしたような顔をした。広範囲の攻撃は大人数には強いが、一対一では得策ではない。それにそれを壊して逆に攻撃に利用されることだってある。敵ならばなさらのこと。

 名前は砕けた氷を踏み砕き、轟への距離を詰めた。それを止めようと氷がさらに床を覆う。だが、氷は足が出る度にガシャンッ、バキッという音を立てて壊れ、文字通りの足止めにはならない。


「止まらねぇか」


 轟が片手を突き出した。遠距離がだめなら直接、凍らせちまえばいい。名前との距離が縮まる。なんの躊躇もなく近付いてくる彼女に轟も動かない。もう少しで触れる。轟の掌が名前の顔にかかったその時、突然、名前の姿が消えた。ドッと音がして、壁へと跳んだ名前がスピードとパワーに乗りながら数歩そこを駆け、轟の背後を取る。


「なっ」


 轟はすぐさま右足を後ろに下げると床に氷を這わせた。体ごと固める気か。


 やっぱり雑。


 名前は軽く跳躍すると、風を切るような鋭い蹴りを放った。背中をぐっと逸らしてそれを避けた轟の髪を脚が掠め、後ろのコンクリートの壁に穴が空く。追撃は無いことに安心すると同時に当たれば終わり、そう思わせた。

 攻撃されるよりも先に動きを止めなければ。無防備な上半身に向かって轟は手を伸ばした。少なくとも地面に降り、体勢を戻すには数秒はかかる。自分の攻撃の方が速い。そう思った瞬間、名前の上体がぐるんと後ろに倒れた。空中で後ろに体を反らし、そのまま地面に片手をつく。遠心力で振られているはずの体はピタリと止まり、続いて大きく空中へと飛び上がった。着地を狙った轟がすぐさま蹴りを入れるが、名前がその伸びた足に手を着き、上から振り下ろすような蹴りを重ねる。当たる、そう思った時、轟の頭すれすれで足先が止まった。


「どんな体幹してんだアイツ!」


「新体操…っぽい動き、でもねぇな」


「床みて床!穴空いてる!」


 氷の床には指のめり込んだのだろう二つの穴がシュゥ…と煙を上げ、空いている。


「すっげぇ!!」


「むっちゃ強いじゃん」


 弱いと思われていた女の子、しかも入試最下位の生徒の思った以上の戦いっぷりに大騒ぎのモニタールーム。ただ、1人だけ、オールマイトだけがその女子生徒の動きに普通ならないはずの実戦慣れを感じていた。


「当てる気ねぇのか」


 当てればこの試合は終わっていた。驕りではないが、情けをかけられたことなどない轟は不愉快なそれに顔を歪める。


「ないね。まだ時間あるし」


 見てるだけも楽しかったけど、と名前は心底楽しそうに笑って、ところどころ凍った傘からぱっと手を離した。床に落ちた途端、ガシャンッ!!!と音がして、氷が砕ける。ただの傘であんな音はしない。重量を物語る音だった。それを軽々と持ち歩く華奢な女の子。まるでなんかの漫画だな。轟は場違いにもそんなことを考えた。


「これも…いいか」


 続けて捕獲用のテープと無線機が捨てられる。これで名前の勝敗は相手を倒すのみとなった。


「もう不安はないね」


 轟はすぐに自分への言葉だと気が付いた。次の瞬間、腰を低くした名前が地面を蹴る。
まるで弾丸。そんなスピードに反応ができない。攻撃体勢を整える前に懐に入った名前が轟の頬に向かって手刀を突き出す。右側の肌を掠めた手に続いて頬に赤い線が走った。そして、その手は轟を超え、後ろの壁へと突き刺さる。衝撃と壁の傷はまるで刃物のように鋭い。岩を砕ける刃物があるのかは疑問だが、轟はそれを見て確かにそう思った。


「何の個性だお前。刃にでもなってんのか?」


 距離を取った名前は一度ん?と首を傾げるとごく当たり前の事のように「私、天人だから。君たちとはちょっと体の作りが違うの」と言い放った。その聞き慣れない単語に轟も首を傾げる。


「アマント?」


「そ。こっち風に言うと…宇宙人?」


「そういう個性か」


「ちょっと違う。じゃあ今度は私ね。なんでずっと右側からしか氷出さないの?左は別の個性?」


「ああ」


 互いに深くは答えない。


「なるほどねー」


 「じゃ、もう一回」と軽い調子で言った名前がもう一度距離を詰める。そして轟の右側から脇腹を狙ったアッパーが入った。轟は防御のために分厚い氷を張ることで時間を稼ぎながら、反対に距離を取る。氷の壁はすぐに砕け、侵食によって片手が氷で覆われた名前が姿を見せる。


「冷たい」


 氷なんだから当たり前だろ。轟はそう思いつつ、片手の動きを止められたことに安堵した。その時、不思議そうな顔で、名前がゆっくりとその手を口元に寄せた。


 バキンッ


 大きく口が開き、片手の氷が噛み砕かれる。大きな塊と小さな破片に分かれた氷が地面に落ちる。


「なっ!」


 凍ってるものを無理に割れば体とはいえ砕ける可能性もあるのにも関わらず、噛み砕いた名前に轟は驚く。手はなんの損傷も無かったが、大した理由がなくても自損も辞さないという態度はある種の恐怖を感じさせた。口調も態度も柔らかく、親しみがあるにも関わらず話の通じない何か。自分とは違うものを相手にしてるような感覚。砕けた氷の下の指先に付いていた轟の血が、ぺろっと舐め取られる。


「汚ねぇぞ。血は」


「大丈夫だよ」


 もう一度、互いに見合った。少しの間が生まれ、そして名前が先に地面を蹴る。突き出された拳が轟へと迫り、轟も作り出した氷で攻撃する。その拳が氷を砕いた瞬間、オールマイトの声がビル中に響いた。


『ヒーローチーム WI―――――――――N!!!!!!』


「終わっちゃった」


 近付いてくる名前に首を傾げる。ゆっくりと伸ばされる手に一瞬身構えたが、その手が頬の傷を申し訳なさそうに触れた事で轟は体の力を抜いた。ほんの一瞬、触れた手は力なんて入っていないように感じるほどに軽かった。「痛くない?」と尋ねる名前の表情はさっきと少しも違わないが、纏う雰囲気が少し違う気がした。


「やっぱりこっちは冷たいんだね」


 自分の右頬を指差すと名前は掌を上に両手を差し出した。その上に轟が両手を乗せる。


「平気だ。ヒーローやってたらこんぐらいの怪我で騒いでられねぇだろ」


「まぁ、そうだね。すごいネ、キミ左と右で体温が違うんだ。右が氷なら左は、そうだなぁ…火とか?」


 「髪も赤いしね」と続ける名前に髪は関係ないんじゃないかと思った轟だったが、それでも当たっているために素直に肯定する。


「ああ」


「使ってたら倒せたかもよ」


「使わねぇ」


 「なぜ?」と小首を傾げた事でさらりと流れる髪。自分は美醜にあまり関心がないが、夜の海のようなそれを轟は綺麗だと感じた。


「左は使わねぇことに決めてる」


「ふーん。まー、両手でも負ける気無かったけど」


 ケラケラ笑って床にあった傘を拾い上げる名前。元より本気でやるつもりなんて無かったのだろう。相手が誰だとしても。幼少期から訓練を重ねてきた自分よりも上の戦闘技術を持つ同い年、しかも女がいるとは。轟は素直な人間だった。考えたままに口に出す。


「個性で年齢操作とかしてねぇか?」


「してないよ」


 でもいい線いってるかも。壁に手を当て、氷を溶かす轟を置いて、名前はモニタールームへと歩き出した。

 

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