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数学の教科書がない。いくら鞄を漁っても出てこないそれに溜息をつき、どうするべきかと考えを巡らせる。忘れたと素直に言う?でもよりによって数学の先生は忘れ物にうるさい先生だ。隣の人に見せてもらう?それも先程と同じ理由で、面倒なことになりそうだ。
じゃあ、炭治郎に、借りる?もうそれしかない。私のクラスと炭治郎のクラスは結構離れていて、私から炭治郎のクラスに行くことはなかなかない。ほんの少しドキドキしながら炭治郎の教室の前まで来ると、後ろから声をかけられた。
「あれ、なまえじゃんなにしてんの」
「え」
振り向くと、そこには元彼の姿があった。
「何、もしかして俺に会いに来たの?」
「違う」
「本当素直じゃねえな、やっぱり可愛くねえわお前」
「あんたに可愛いって思われなくて別にいい」
「うわっこえー、そんなんだからすぐ男に愛想尽かされんだよ」
最悪だ。こんなはずじゃなかったのに。そういえば炭治郎は、この元彼と同じクラスだった。普段あまりほかのクラスに来ることがないから気が付かなかった。
この人は、付き合う前はとっても優しかったのに、付き合った途端に豹変した人だ。結局、顔の可愛い彼女がいると言うステータスが欲しいだけの男だったのだ。別れる時にも「お前は顔しか取り柄がない」だとか、「お前に付き合わされた俺が可哀想」だとか、そんなことを喚き散らされ、「迷惑料だ」と言って半ば無理やり行為に及ばれたのは記憶に新しい。私はそれがトラウマのようになっていた。忘れよう忘れようと毎日頑張って、ようやく忘れかけていた時だったのに。
「…私、他の人に用事があってきただけだから」
「もしかして竈門のこと?聞いたよ、竈門も騙されちゃって可哀想だよなあお前みたいな女に」
「私は誰も騙した記憶はないけど」
「は?騙したも同然だろ、顔が可愛いからと思って付き合ってみたら我儘だわ可愛げはねえわガードは固いわで最悪だって」
「そんなのそっちが勘違いしただけでしょ?私のせいにしないで」
「あーあ、竈門にも教えてやらないとなあなまえが顔面だけの女だって」
久しぶりに会った元彼に、なぜここまで言われなきゃならないのか。目頭が熱くなるのを感じて、もう教科書を借りるのは諦めようと決めた。
「勝手にして!もう話すことないから」
くるりと彼に背を向け立ち去ろうとすると、手首を掴まれてしまった。
「待てよ、なまえ竈門に用事があってきたんだろ?呼んでやるよ、それでお前の目の前でいろんなことバラしてやる」
「やっ、」
ぽたりと涙が一滴頬を伝って廊下に落ちた時だった。
「名前に、何してる」
「た、炭治郎…」
私の背後から、炭治郎が現れたのだ。
「その手を離してくれないか」
「噂をすれば竈門じゃん、こいつ知ってる?顔かわいいだけで中身最悪な女だよ」
「なんでお前にそんなこと言われなきゃならないんだ」
「え、知らない?俺なまえと付き合ってたの」
にやにやと喋る男を目の前にして、私は何も言えなかった。手が震えるのがわかる。それ以上、お願いだから言わないで。絶対にこの人の言うことを信じないで。
「炭治郎、」
「…じゃあ、なまえを傷つけたのはお前だな」
「は?傷つけられたのはこっちの方なんだけど」
「じゃあどうして今彼女は泣いているんだ!少なくともお前は今なまえを傷つけている!」
半ば無理やり炭治郎が私と彼の手を解き、「行こう」と手を引っ張られる。
「おいちょっと待て!」
「待たない!」
律儀に返事をして、そのまま大股で歩いていく炭治郎は、まっすぐ前を向いていてどんな表情なのか分からない。呆気に取られているうちに着いたのは空き教室だった。
「大丈夫か?すまない、俺が教室にいればすぐに気づいてあげられたのに」
「ううん…」
「何を言われたんだ」
「……」
炭治郎は、私が今までどんな人と付き合ってきたのか知らない。私が話す必要が無いと思ったからだ。いや、私が話したくなかったのかもしれない。最初は知っているのかと思って詮索するようなことをしたこともあったが、炭治郎は知らない様子だった。知らないとわかって安心したし、それをわざわざ話すのは、私にとってとても勇気がいることだった。