※現パロ 大学生
伊黒さんの笑顔が見たい。付き合ってまだ間もない彼の笑顔を見た事がないことに気がついたのは、友人の惚気話を聞いている時だった。
「彼氏が私にだけ向ける顔が本当にかっこよくて」
その言葉を聞いて、伊黒さんが私だけに向ける顔があっただろうかと考える。思い浮かんだのは、呆れた顔や怒った顔ばかりで、友人が話しているような優しい表情や笑顔などはこれっぽっちも想像がつかなかった。
「いいなあ、羨ましい」
そう言いながらも、まだ止まらない友人の話は私の頭に残らなくなっていき、私の頭の中は伊黒さんの笑顔が見たいという想いでいっぱいになっていた。
ーーー
「あっ伊黒さん!」
大学に着くなり伊黒さんを見つけ、手を振りながら大きな声で叫ぶとこちらを振り向きながら足を止めてくれる。嬉しくて駆け寄ると、大きなため息を一つつかれる。
「なんだ騒々しい、そんなに大きな声を出さなくてももっと近づいてから声をかければいいだろう、だいたいお前はいつもそうやって走ってばかりで危なっかしい、少しは落ち着くことが出来ないのか」
「ごめんなさい、でも久しぶりに会えたから嬉しくって」
「二日会えなかっただけでそれが久しぶりと感じるお前の頭はどうなっているんだ」
ごめんなさい、と笑ってみせたが、やっぱり伊黒さんは笑顔をみせてくれない。どうしてだろう、なんでだろう。この二日間で溜まった話を一方的に話していると、ふと恋人同士と思われる男女が仲良さそうに笑顔で歩いているのが目に止まった。伊黒さんは私と並んで歩く時はいつも少し離れていて、傍から見ると付き合っているようには見えない位の距離感だ。ぺったりくっついて歩くのが好きな人には見えないし、それが嫌だと思ったことは今まで1度もなかったけれど、なんとなくそれが少し寂しく感じた。
「…どうした」
気づくと私は黙り込んでしまっていて、伊黒さんの声にはっとする。「なんでもないです」と取り繕って、笑顔で話を続けたが、心の中には今まで感じることのなかったもやもやが生まれてきていた。
ーーー
この数週間、どうやったら伊黒さんは笑ってくれるのかと色んな手を使って試したが、どれも失敗に終わってしまった。以前好物だと教えてもらったとろろ昆布を持っていってもだめ、面白いテレビ番組を見てもだめ。どうしようもなくなって、後ろからお腹をくすぐった時には、ぎろりという音が聞こえてきそうなくらいに鋭い目で睨まれ、説教をされてしまった。
伊黒さんと会える頻度は決して多くない。学年も学部も違うのだ。そんな私たちがなぜ付き合えたのかと言うと、私が貧血になり電車で倒れそうになったところを伊黒さんが助けてくれたのがきっかけだ。一見怖そうな外見で、実際愚痴愚痴と文句を言いながらではあったが、その芯の優しさを好きになった。同じ大学だとわかってからは、私が何度もアタックし、時間をかけてようやく付き合うことが出来たのだ。
今日は伊黒さんに会えるかな。確か今日は講義がある日のはずだから、運良く会えないかな。そう考えていると、ちょうど大好きな後ろ姿が目に入った。
「伊黒さ、」
すぐに声をかけようとしたが、誰かと話している様子であることに気づき、途中でやめた。確か、伊黒さんと同じ学部の、甘露寺さんだ。大事な話をしているかもしれないし、邪魔するわけにいかないとそのまま通り過ぎようとすると、ちらりと伊黒さんの顔が見えた。
「え…」
伊黒さんの顔は、今まで私に見せたことがないような、とても幸せそうな顔だった。
ーーー
その後自分がどう過ごしたのか、わからないままいつの間にか自分の部屋にいて、気がついたら次の日の朝だった。昨日見た光景がフラッシュバックして、鼻の奥がつんとする。こんな形で伊黒さんの笑顔が見られるなんて思いもしなかった。私にはみせてくれない顔、きっと好きな人にしか見せない顔なんだろうなって想像がつく。伊黒さんって、甘露寺さんが好きなのかも。思い返せば、メッセージは私ばかりが送って既読無視なんてよくある事だったし、デートだって私が誘わなきゃ行くことは無い。大学で声をかけるのも私からだし、そういえば、私、好きって言われたことあったっけ?
結局私は片想いだったから、友達が言っていたような、私だけに見せる顔なんて伊黒さんはみせてくれなかったんだ。この前感じたもやもやの正体の答え合わせができてしまったような気がして、自分が惨めになる。
そんな日に限って発表が当たっているから大学は休めないし、大学に着いたら着いたで会いたくない人に会ってしまうのだ。
「伊黒さん…」
小さく呟いてしまった声に、伊黒さんは振り向き、足を止めてくれる。いつもなら嬉しいはずなのに、今日は逃げたくて仕方なかった。
「おはようございます、せっかく会えたのに今日はちょっと急いでて、すみません…」
すぐに話を切り上げようと思ったのに、いつの間にか目には涙の膜が張ってきていて、瞬きするとこぼれてしまいそうだった。ばれないように立ち去ろうとするが、腕を掴まれてしまいどうすることも出来ない。
「どうした、何かあったのか」
そう言われてしまうと、今まで私の中で我慢していたものが決壊し、ぼろぼろと目から涙があふれる。弁解しようと思っても言葉が出てこなくて、やっとの思いで口から出たのは「ごめんなさい」だった。
「…なんでお前は普段べらべらと止めどなく話し続けるくせにこういう時は言葉が足りないんだ」
舌打ちが聞こえ、びくりと肩を震わせてしまう。その様子にもう一度舌打ちをした伊黒さんは、掴んだままの腕を引っ張り歩き出してしまった。
たどり着いたのは誰もいない空き教室で、座れと促されそのまま席につく。
「最近様子がおかしいぞ。急に黙り込んだかと思えば遠くをみていたり、笑顔がひきつっていたり、何かあるなら言えばいいだろう。だいたいいつもお前はそうやって」
「伊黒さんって、優しいですよね」
なんだか耐えられなくなって、つい話を遮ってしまった私に、伊黒さんが「は?」と低い声を返す。
「最初は、笑ってる顔が見たいなって思っただけだったんです。友達の話を聞いて、羨ましくなって」
「それで勝手にから回って、1人で悲しくなったんです、本当にごめんなさい」
「私と別れて、甘露寺さんと付き合って…」
「…何故そこで甘露寺が出てくる」
ずっと黙って聞いていた伊黒さんが口を開いた。反射的に顔をあげると、とても怒ったような顔をしている伊黒さんと目が合い、咄嗟に逸らしてしまう。
「…見ちゃったんです、甘露寺さんと話してるところ。伊黒さんとっても優しい顔をしてたから、甘露寺さんのことが好きなんだって、おも、っ、て、」
また込み上げてきた涙がこぼれないようにと袖で拭おうとすると、その手を掴まれる。
「不安にさせて、すまなかった」
「え、」
「甘露寺には、苗字との話を聞かれていたんだ。お前のことを話していると、どうしても頬が緩んでしまう」
「…」
「俺は好きでもない奴と付き合わない。連絡も取らないし出かけたりもしない」
「本当ですか…」
「俺な嘘をついていると言いたいのか」
「そうじゃなくて、そんなこと言って貰えるなんて思わなくて…」
伊黒さんの親指が優しく私の涙を掬う。鮮明になった視界に映ったのは、あの日見たよりももっと柔らかい笑顔だった。
「…俺はお前が、好きだ」
そう言って頬を染める伊黒さんをみて、私も久しぶりに心から笑えた気がした。
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