忘れたくないのに消えていく
ずぅっと一人で山の奥不覚にいたものだから声がそれに吸い取られてしまったのだ、と彼は言った。
けれどすぐに声が出なくなる訳ではなく、少しずつ言葉を忘れていく、仕掛けらしい。
それを少しでも遅らせるためには、それを追い出すためには、人とたくさん話さなければ
「だからしばらくいさせてもらうよ」
一人で住むにも狭い家に、彼はしばらくとどまっている。
毎日囲炉裏端で、彼は話をしてくれる。彼が今まで触れた、見てきた、蟲の話。
私にそれは見えないけれど彼にはきっと今この瞬間も見えている。
朝、私は彼よりも早く起きて井戸に水を汲みにいく。
「ギンコさん」
ひっそりと彼の名前を呼ぶ。けれどそれ以上言葉を重ねることはできない。
いつかこうして彼の名前を呼ぶことすら、忘れてしまうのだろうか
忘れたくないのに消えていく
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