ビニール傘一つ分の領域


「傘を忘れました」


できるだけ彼の目を見て、声が震えないように答える。


「今日は朝から雨が降っていただろう」


特に感情をこめるでもなく淡々と彼は言う。


「教室棟に忘れたんです」


「雨が降っていたのにか?」


「…………」


答えにつまった私を彼は責めるでもなく、言葉を重ねる


「そういえばお前、筆記用具を忘れていたな」


「教室棟に忘れたんです」


案外間違ってはいないだろう。教室棟のゴミ箱にあるのだろうから


「嘘だな」


「嘘じゃないですよ」


彼は少し微笑んで言う。


「お前の事だから塾が始まる前に回収するだろう」


ああなるほどお見通しか


「実は、ですね、」


話そうとしたその言葉に湿っぽい色が混じり、ぱたた、とシーツに塩水が落ちる。


先生が焦った顔をするのが新鮮で笑おうとしたのに、なぜか、止まらない。涙が止まら
ないのだ。


困った顔をした彼は私にすまんとわびた後、いつかのように頭を撫でた。


「お前が嫌ならもうこの話はしない」


「ちがっうっんです、せん、せい」


嗚咽の間に何とか言葉を挟む。


私は別にこの話をするのが嫌でもなんともないんです。だから、先生は気にしないでください。


そう言おうとした。


でも、私はきっと、この出来事に対して、不本意だから今まで認めなかったけど、きっ
と泣きたかったのだ。


「……しばらく、泣かせ、て、ください」


そこにいてください、とお願いしたら、彼は黙って、頭を撫でてくれた。


部屋の隅には彼が使ったと思しきビニール傘が立てかけてあった。私を運ぶとき彼も濡れたろうに。彼が風邪をひいたらそれこそ申し訳がない。

ちらりとそんなことをかんがえた


ビニール傘一つ分の領域