深く深く
ごぼり、と自分の呼吸の音がする。
バスタブに満たされたぬるま湯(熱いのは嫌だと奴は言うのだ)に潜っているからだ。
水中で、いっそこのまま溶けてしまいたいとさえ思う。
ごぼ、とまた空気が自分から逃げていく。ああこの湯船がもっと深ければ私はこのまま沈んで、溶けてゆけるのに。
(このまま融けてしまえばいいのに)
そう思った瞬間、腕を掴まれる感触がして、勢いよく引っ張りあげられた。
「…………」
もちろんそれをしたのは奴である。いつも能天気に笑っている顔が今は険しい。
私がどうしたんですと問うとその険しい顔のまま彼は君がこのまま溶けてしまうんじゃないかと思ったんだと答えた。
「君はそうやって私からも、世界からも逃げ出そうとする。それは私にとってとても悲しい」
あぁそうやってまっすぐに私を射抜く瞳に私は耐え切れず逃げようとしているのに。
そうやって腕をきつく、痕が残りそうなほどにきつく掴むから私はどこにも逃げられない。
ならばせめて、その目を見ずにすむようにしたい。
私は強引に奴の手を振りほどき、うつむき加減に奴に寄り添い、奴の胸板に額を押し付ける。
奴はそれをただ甘えてきたのだと勘違いしているのか、私を深く抱きしめた。
奴が小さく私に沈んでくれればいいのにと呟く。私は聞こえないふりをして目を閉じた。
それができればもとより苦労はないのだ。
深く深く深く深く
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空月には埋められない温度差があるのだと
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