23:29 ワンライ赤葦君
鳴り響いたチャイムに顔を上げると、もう図書室の閉まる時間だった。ここで勉強しようとするといつも誘惑に負ける。
私はため息をついて手元の文庫本を本棚へ戻した。
飛行機乗りの主人公は、今はもう人妻な幼なじみに頼まれ、彼女をかつて自分たちが出会った田舎町へ連れ出そうとする。
けれど、その逃避行は頓挫する。彼女は夫のもとへ、主人公は空へ帰る。空を飛ぶことでしか満たされない主人公。ならば、幼い日のその感情は、恋と呼ぶべきかもしれないそれは。
昇降口を出ると、空の片側にはもう夕焼けが広がっていた。これからますます日は短くなっていく。秋の日はつるべ落とし。
「先輩」
いきなりの背後からの呼びかけに、びくりと振り向くと後輩の赤葦であった。
「部活?」
「いえ、委員会でちょっと」
どおりで見知った顔がいないはずだ。一緒に帰りませんかと言われたので、了承する。
夕焼けはますます広がっていく。けれど反対側の空はまだ青い。
赤葦が唐突に話し出した。
「先輩がこの前言っていた人の本を読んだんですよ」
「え、あ、あぁ、あれね」
そういえばそんな話をした気がする。さっきも読んでいたその作家にここしばらく凝っているのだ。
彼の挙げたタイトルは奇しくもその、さっき私が読んだ本だった。
「ねぇ赤葦は、あの、かけおちのシーンどう思った?」
彼はしばらく考え込む。ややあって、あぁせずには入られなかったのだと思います、と答えた。
「あのときだけは、きっと、たぶん。二人にとって、互いが生まれて初めて認識した特別な存在だったから」
赤葦はゆっくりと言葉を紡いだ。
案外ロマンチックなことを言うのだなと感じたけれど、それは言わなかった。
「私はさ、自分が実際感じたことじゃないと、小説の中であれ現実であれ他人の感情を本当に理解できないと思っているんだけど、それなら、赤葦は同じように、そうせずにはいられなかったことがあるんだろうね」
え、と赤葦は言葉をつまらせる。夕日も差していないのにその頬は赤かった。
彼との帰り道の終点である交差点か迫っていた。言葉を詰まらせた彼のその顔は私がいままで見たことないもので、
(そうせずにいられなかったことなんて、今まで私にはなかったけれど)
私は赤葦君を引き留めるための言葉を吐く為に、口を開いた。