60000kikaku* | ナノ
月が、まん丸で、綺麗な夜だった。
灯りの消えたオフィスの中で、それは明々と存在を知らしめた。
彼女の瞳は、潤ませたまま、閉じたり開いたり。
僕はひどく幻想的で儚いそれに、
まるで本能がそうさせるみたいに、
唇を寄せた。
あわせいと*10
電話の音があちこちで鳴り響く、絶賛仕事中の金曜日。
彼女への告白から1週間。
相変わらず仕事へ費やす時間は多い。が、以前のようなぴりぴりとした空気は感じず、例えるなら、凪いだ海みたいな心境だった。
書類をめくる僕の横で、李桂が僕のコメントをボードに書き写す。ああでもない、こうでもない。飛び交う意見の中で、ちらりと目に入った2人分の姿。
…あーあ、また付きまとわれてんのか。僕はため息を少し吐いて、また視線を書類に戻した。
まぁ、見てていい気分ではないのは相変わらずだ。
「アレン、ここんとこの記載どうする?」
「んー、さっきのリナリーの案がいいかなと思うけど」
「そうですね、じゃあ来週までにまとめてコムイさんに確認しましょう」
一段落を終え、ぞろぞろと昼休憩を取り始める社員。僕もゆっくりと腰を上げ、先程視界に入った姿を目指して歩き出した。
「…お昼、ちょっと付き合ってくれる?」
「…え?」
「話があるんだ。…仲村に」
仲村は『何で俺?』みたいな顔で僕を見やった。
***
社食の、人気のない隅の席。周りの賑やかさから隔離されたように、静かだった。
「…仲村は、さ、何でなまえちゃんが好きなの?」
「…やっぱ、その話題っすか」
仲村はその表情を歪ませて、何とも気だるそうに頬杖をついた。
「だって、先週は仲村が言いたいことだけ言って去っていっちゃったじゃないか。それってフェアじゃないだろ」
「…じゃあ、あれっすか、なまえさんを俺に譲ってくれる気にでもなりました?」
「そんなわけないだろ、誰がお前なんかに渡すかよ」
嫌味ったらしく満面の笑みでそう言えば、仲村は「うっわ、腹黒…」と呟いた。
「あれから、結構考えたんだ。悔しいけど、仲村の言うことはすごく僕の中に響いたし、ああ本当になまえちゃんのことが好きなんだって分かったから」
「…何すか、それ」
「なまえちゃんとも、あれからちゃんと話して、わだかまりは解けたよ」
「…でしょうね、なまえさんのオーラが先週と違いますもん」
彼女のオーラの変化に気付くくらい近くにいるこいつが恨めしくて、僕は一瞬ばれないように舌打ちした。
「…仲村の気持ちを知ったからって、それでも、やっぱり僕はなまえを手離すつもりなんて1%も思わないよ」
静かにそう伝えれば、仲村は「…そうっすか」と拗ねた。
「悪いけど、君以上になまえを愛してるからね」
「…何すか、その先週までなかった余裕な態度。すげぇムカつくんすけど」
「あはは、余裕なんてないよ。ただ、君を見習って僕も正直に伝えていこうと思っただけだから」
むしろ、仲村に感謝したいくらいだ、なんて、さすがにそれは言えないけれど。
「…それでも、俺はそう簡単に諦めたりしないっすよ」
「うん、そう思ったから、僕も真っ向勝負しようと思うよ」
やれるもんならやってみろ。そう微笑むと、仲村は少し怯んで、「…俺、やっぱりウォーカーさん苦手っす」と眉間に皺を寄せた。
「言ったでしょ、僕を敵に回すとおっかないって」
「…腹黒」
***
「…だから、仲村くん、ちょっと様子が変だったんですね…」
すっかり人気のなくなった部屋で、なまえちゃんの苦笑混じりの呟きが溶けて消えた。
2人で残業する金曜日は、僕にとって何の苦痛でもなく、寧ろラッキーだとさえ思う。
「まぁでも、無事に宣戦布告もできたし、少し落ち着いた、かな」
彼女に倣って苦笑いをこぼせば、くすくすと、小さな笑い声が返ってきた。
「そういえば、ウォーカー先輩は飲み会行かなくて良かったんですか?わたしの残業に付き合ってもらっちゃって何だか申し訳ないです…」
今頃企画開発部での飲み会が盛大に行われているだろうが、残業予定の彼女と僕は欠席した。なぜかにやついた顔の社員達に「ま、あんまりサカり過ぎるなよ」と意味深な言葉を贈られた。
「ううん、僕も自分の残してた仕事があったし…なまえのいない飲み会に行ってもあんまり楽しくないかなって」
「っ、せ、先輩、そういうことさらっと言わないでください…」
たったこれだけのことで、彼女はかぁっと頬を赤らめる。それが堪らなくおかしくて、愛おしくて、僕はまたからかいたくなる。
「ふは、なまえ、顔真っ赤」
「……っ、も、もう、さっさと終わらせちゃいましょうよ…」
「残念、もう終わってるよ」
ふつふつと笑えば、彼女は「が、がんばります…!」と頬を膨らませて視線をパソコンに戻した。僕は彼女を眺めながら、デスクにこてんと頭を乗せた。
…かたかた、たん。
鳴り続けていたキーボード音が止んだ。ふ、と見上げるのと同時に、「お、終わりました…」と気の抜けた声が降ってきた。
「お疲れさま」
デスクに寝そべったまま、ゆらりと左手を伸ばし、彼女の頭をくしゃっと撫でる。彼女はまた少し頬を赤くしたけれど、今度はふにゃ、と緩んだ笑顔を見せた。
好きだなぁ、この空気感。
「お待たせしちゃってすみませんでした。帰りま、ぅわっ!?」
彼女の声を待たず、僕は撫でたままの左手で彼女の頭を引き寄せた。そして僕の前にすとん、と下ろし、向かい合うかたちになった。
「…せ、先輩、帰らないんですか…?」
「んー、もうちょっといよう?どうせ誰もいないんだし」
誰もいない、という言葉に、今更顔を赤くするなまえ。尚もなまえの頭を撫で続ける僕。
「…せんぱ、」
「『アレン』」
「っ!」
「あれから全然呼んでくれないよね、『アレン』って」
「…だ、だってそれは…」
「それは?」
「…せ、先輩は先輩ですもん…」
「先輩で、彼氏でもあるんだけど」
「…っ、な、何でそんなに名前で呼ばれたいんですか…?」
「だって、なまえに呼ばれる名前は、何か特別な感じがするんだ」
すごく嬉しくて、温かくて、泣きたくなるくらい幸せになるんだ。
「…なまえは?」
「へ、」
「なまえは、僕に名前を呼ばれて、どう思う?」
「え、えと…」
うろたえながら、彼女の口からこぼれた、ひどく幸せな、魔法のことば。
「心臓が、きゅうってなるくらい、幸せです」
そのことばに胸が締め付けられたのは、僕の方だった。
「…僕も、聞きたいなぁ」
彼女の耳にかけた髪を、ゆっくりと、指でなぞった。
「聞かせてよ、ね?」
「…っ」
「なまえばっか、ずるい。僕だって、呼んでほしい」
「…は、恥ずかしい…」
「なまえ、」
「や、耳っ…くすぐったい…っ」
可愛い。
愛おしい。
抱きしめたい。
…もっと、触れたい。
僕は身体を起こし、すぅ、と、彼女の耳に、唇を寄せた。びくん、と彼女の身体が反応する。慌てて身体を起こした彼女は、大層恥ずかしげに僕を睨んだ。
「…セクハラです、」
「だって、なまえが言うこと聞いてくれないから」
わざとらしく口を尖らせると、彼女はしばし俯いてう〜、だのえ〜、だの唸りだした。
そして突然、がばっと顔を起こすと、
「…ア、アレン…っ」
不意に爆弾を落としていった。
「…もう1回、呼んで」
「…アレン」
「…もっと、」
「ア、レン」
「…っ」
ああ、もう、
しあわせだ。
僕の足がすくっと動きだし、ある方向へ向かった。
僕は、部屋の電気をふ、と消した。
「…アレ、ン…?」
恐る恐る僕の背中に問いかけるなまえを、僕は咄嗟に抱きしめたくなった。
「なまえ、」
ゆっくりと、彼女のもとへ歩き出す。椅子の上から僕を見上げる彼女の顔を、月明かりが照らした。
右手で、彼女の頬をなぞった。彼女は少し驚いて、それから、ほんの少し目を伏せた。
「なまえが、好きだよ」
言いながら、泣きそうになった。泣きそうなくらい、彼女を好きだと思った。
「…アレン、」
彼女が僕の名前を呼んで、僕の手に、自分の手を重ねる。とても、大事そうに。
「アレンじゃなきゃ、嫌です」
「っ、」
「アレンと一緒に、いたいです…」
息が、できなくなるくらい、苦しかった。
だけど、ひどく心地よくて、温かかった。
「…絶対、離してなんて、やらないから」
そう囁いて、僕は彼女に顔を近づけて、口づけた。
まるで泣きじゃくるみたいに、何度も、何度も。
それに応えるみたいに、彼女は必死に僕にしがみついた。
足りなくなる酸素を、吸いこむ隙もないくらい。
「っ、ふ…っ」
舌を絡ませて、
「…ぁっ、」
右手が、下の膨らみを捕えて、
乱れていく彼女を
守るように
ほどくように
指で、なぞった。
彼女の首筋、肩に、舌を這わせる。
喘ぎそうになる声を必死に抑えながら、彼女の身体がしなる。
「…声、我慢しなくて、いいよ」
「だって、ここっ、会社…んっ、」
「…聞かせてよ、声」
「やっ、だ、めぇ…っ」
「あれ?誰かいるんさ?」
ぱっ、と、突如明るくなった室内。
……え、えええ!!?
「って、あれ、アレンとなまえちゃん…?え、わり、もしかして、お楽しみ中でした…?」
「…ラビ、」
「わああぁ!ご、ごめんて!ただ何か音がするから見にきただけで、ホント邪魔するつもりは…っ!」
その直後、ラビの断末魔が社内に響いたのは、僕達だけの秘密。
***
「…あはは、そんなこともあったねぇ」
「ちょっと、今でも恥ずかしいんですけど…」
あれから数年が経った。
わたし達は相変わらず同じ会社で働いて、相変わらずラビ先輩はいじられ役のままだ。
変わったことと言えば。
「なまえ、化粧してもあんまり変わらないよね」
「ちょ…アレン、それは女子に言っちゃいけないですよ」
「あはっ、違うって、素肌美人だよって言いたかったんだ」
わたしの『アレン』呼びがようやく板についてきたこと。
それから。
「…綺麗だよ、なまえ・ウォーカーさん」
「…ありがとうございます」
「行こうか、みんな花嫁さんを待ってるよ」
わたしの名字が、あなたと同じになったこと。
「さぁ、手を繋いで歩いていこうか」
つむいだ しあわせを
今度は ふたりで
縒り合わせていこう。
しあわせ糸で
end.*゚
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つむぎうた続編でリクエストしてくださった皆さまへ。
遅くなってすみませんでした。
お二人の幸せがいつまでも続きますように。
2013.9.16*kei
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