60000kikaku* | ナノ

僕の後を少し遅れて、彼女が部屋に戻った。
李桂の計らいでトイレに籠っていたことになっていた彼女は、一斉に大丈夫かと社員に問いただされ、変な汗をかきながら必死に大丈夫ですと言い続けていた。
李桂は戻った僕らにさほど意を介さず、淡々と仕事を続けていた。彼は僕なんかよりもずっと大人だ。
「…李桂、ありがとう」
僕はこっそりと彼に耳打ちした。
「…俺何もしてないですけど」
「李桂の言う通り、僕は彼女にしてあげられてないことがたくさんあった」
「…もう、解決したんですか?」
「ううん、まだ中途半端。…でも、今日ちゃんと話すよ」
そう言うと、李桂は少しだけ笑って、「オフィスラブはほどほどにお願いしますね」と言った。
「…はは、どうだろう、あんまり制御できないかもね」
「…見かけによらず肉食系ですよね、ウォーカーさんて」
「そりゃどうも」
「褒めてないです」


 あわせいと*9



お先に失礼しまーす、と言って退勤する社員の背中を何人も見送りながら、僕はひたすらキーボードを打ち続けた。…できた、来週のプレゼン資料。ちらりと腕時計を覗けば、19:20。よし、あともう1つの案件を片付ければ、8時に間に合う。緩む口元を抑えながら、気合いを入れるみたいにワイシャツの袖を捲り上げた。ネクタイも緩めた。
「熱心だなーアレン、まだ終わんねぇんさ?」
のほんと暢気な声の主は、まごうことなき営業部のラビだった。
「他部署に顔出すってことは、自分の仕事はちゃんと終わらせてきたんですね」
「あったりめーだろ、オレを誰だと思ってるんさ、営業部期待のエース、ラビs「あ、そういうの今ちょっといいです」…ちょ、何そのぞんざいな扱い」
満足に突っ込まれず不満を嘆くラビを軽くあしらいながら、僕は黙々と仕事を進める。
「…もしかして、今夜おデート?」
ラビの発言に、一瞬手元が浮ついた。こいつ、無駄に察しがいい。
「そーいえばさっきなまえちゃんもまだ印刷室で仕事してたさ。…ああ、もしかして社内で密会的なアレ?」
「…あの、ちょっと黙っててもらえますか」
「ははーん、図星ね?何なのお前ら、ここは神聖な仕事場デスヨ?」
「黙ってろっつってんだろ眼帯むしるぞ馬鹿兎」
「スミマセン」
「つーか仕事終わったならとっとと帰れ」
「あ、ハイ、そうさせていただきます」
からかいモード発動寸前の彼をどうにかおさえ、ラビはへこへこと出口へ向かっていった。何しに来たんだあいつ。
「アレンー」
そのまま帰るはずのラビは、出口の少し前で再び僕に声をかけた。
「今度は飲みに誘うかんな、そん時ちゃんと近況きかせろよー」
…ああ、なんだ、彼なりに心配してくれてたんだ。僕は少し眉を下げて笑って、「分かってますよ」と、手を振る後ろ姿に向かって応えた。
そうか、今日は金曜日だった。



***

「……でき、たぁー」
エンターキーをたん、と押し、身体中の力がふっと抜けた。肩を回すとバキバキと音が鳴った。終わった。腕時計の針は8時ジャスト。慌ててパソコンの電源を切り、はやる気持ちを抑えながら奥のA会議室に向かった。

なまえちゃんはもう、来ているだろうか。待ちくたびれているだろうか。小走りでようやくA会議室の前まで辿り着く。こっそり覗きながらドアを開けると、小さく聞こえてきたキーボード音。
なまえちゃんが、一人でパソコンと格闘していた。
彼女の姿を確認した僕は、思わずほぅ、と安堵のため息が漏れた。ゆっくりと彼女に近づいていく。少しして僕の存在に気付いた彼女は、「あっ、お疲れさまです」と手を止めて笑った。
「すみません、あとこれだけやったらすぐ終わるので、」
再びパソコンに顔を戻した彼女をよそに、僕は彼女のすぐ後ろに足を進めた。
そして、ぎゅ、と両腕に彼女を閉じ込めた。
「っ、せ、先輩あのっ、」
「いーよ、そのまま続けて」
「え、いや、ちょっ、こここ、これだとあの、」
「日本語になってないよ?」
「……っ、ど、どんな拷問ですかこれ…っ」
震える手でキーボードを打つ彼女は、堪らなく可愛かった。やっとの思いで仕事を終わらせた彼女は、パソコンの電源を切るとほぅ、と小さく息を吐いた。
「……ウォーカー先輩?あの、終わりましたけど…」
抱きついたまま言葉を発さない僕を不審に思い、なまえちゃんは恐る恐る振り向いた。

ここまで我慢した僕を誰か褒めて欲しい。
ぎゅうぅ、さっきよりもずっと強い力で彼女を抱きしめた。驚いた様子の彼女は一瞬うろたえて、それから、大人しく腕の中におさまって、おずおずと背中に手を回した。
「…やっと、触れられた」
もう随分と触れていなかった気がする感触。匂い。温かさ。ああそうだ、こんなだったなぁと、噛み締めるように腕に力を込める。腕の中から、なまえちゃんの「…く、苦しい、です…」というくぐもった声が聞こえ、僕はほんの少しだけ力を緩めた。
これ以上、彼女を手離したくなかった。この感触を、この心音を、ずっと感じていたいと思った。

「…ごめん、なまえ、」
彼女の肩に顔を埋めながら、今度は僕がくぐもった声を出した。
「…ウォーカー先輩、謝ってばっかですね」
なまえ、は、そう言って少しだけ笑った。
「謝るのは、わたしのほうです」
額を僕の胸に押し当てて、ゆっくりと話しだす、柔らかな声。
「…わたし、ずっと、寂しかったんです。先輩とゆっくり話せる時間もなくて、もどかしくて、でも自分から言い出せなくて、ずっと一人で抱えてたんです。…勝手に、嫉妬とか、しちゃったり、して…」
「…やっぱり、見てたんだよね、神木さんとのこと」
ゆっくりと、小さな頭が頷いた。
「…泣いてたのは、それがきっかけ、だよね」
こくり、ともう一度控えめに頷く彼女。
「あれは、僕も不意をつかれて、何が何だか…」
ことの一部始終をすべて話すと、彼女は「そっか…」と呟いて、ふ、と肩の力を抜いていた。
「不安にさせて、ごめん」
僕の言葉に、「だから、謝りすぎですよ」と、また柔らかく笑った。

「…僕も、さ、まだ結構不安なんだよね…」
はは…と乾いた笑いとともに呟けば、彼女は「へっ!?」と慌てて顔を上げた。いや、そんな『わたしのせいですか…!?』みたいな絶望的な顔しないで。
「なまえじゃなくて…仲村のこと。」
「仲村くん…ですか…?」
そもそも彼がなまえにまとわりつくようになってから、色々とややこしいことになっていった気がする。
だけど、彼の存在は必ずしもマイナスなものとは限らなかった。

彼がいたから、欲深で嫉妬深い自分を知った
彼がストレートに行動で示すから、自分の不甲斐なさを痛感した
彼がいつだって正直だから、僕も真正面から向き合おうと思えた

悔しいけれど、彼が僕に気付かせてくれたことの方が大きかった。

「…だから、今度は僕が、仲村にちゃんと伝えたいんだ」
自分の気持ちも、彼女がどれだけ大切なのかも、ちゃんと。
「…それから、なまえにも」
ゆっくりと彼女を見下ろせば、まん丸の瞳が真っ直ぐに僕の姿を映していた。


「あのね、なまえ、
僕は君に出会えて、君の近くにいられて
本当に幸せ者だと思うんだ。

ひとり占めしたいし、
他の奴になんか渡したくないし、
なまえの全部を、僕が共有していたい。

どこかで、
なまえは間違いなく僕を好きでいてくれる、って
根拠のない自信ばかりひけらかして
どこか安心しきってた。

だけどね、
自分がどれだけ浅はかだったか
ようやく思い知ったんだ。


僕は、なまえが大好きで、
愛おしくて、大切で、
あとはね、
叶うのなら
なまえも同じ気持ちでいてくれたら、って
そう思うんだ。


…なまえ、
どうかこれから先
おじいちゃんおばあちゃんになっても
僕と一緒に
手を繋いで
歩いていってもらえませんか」




思いをことばにするのは、なんて難しく不確かなものだろう。
だけど、例え僕の思いが100%伝わらなくたって
彼女が隣で笑っていてさえくれれば
もう、それだけでいい気もするんだ。


「……なまえ、?」
ゆっくりと名前を呼べば、まん丸の瞳は僕を映したまま
揺らいで、潤んで、ぽたりと零した。

一瞬驚いた僕が慌てて彼女の涙を拭えば、なまえはへにゃ、と笑って
それから
「…はい」
って小さく頷いて、僕の指先を小さく握った。





糸をたぐる指
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